戦争を知らない人々へーイラク最激戦地の取材経験から

イラク西部ファルージャ 筆者撮影(2004年)

 今年の3月でイラク戦争の開戦から18年目。現在も地域によっては、テロや銃撃戦などが起きているなど、治安情勢は不安定であるが、日本では、ほとんど報道されることがなくなってきたため、また開戦から年月が経ったため、イラク戦争がいかに酷いものであったか、多くの人々が忘れてしまっているように、筆者には感じられる。また、そもそも、10代・20代の若者にとっては、イラク開戦当時にはまだ生まれてなかったか、あるいは小さな子どもであったために、あまり記憶がない、教科書上の出来事なのかもしれない。だからなのか、ここ最近、イラク戦争の国際法上、人道上の問題を軽視するかのような言動を立て続けに見聞きすることがあった。

 一つは、小泉純一郎元首相の、「イラクが査察を受け入れなかったから戦争になった」という発言だ。これがいかに欺瞞に満ちた、事実を歪め、戦争被害者を愚弄する大暴言であるかについては、別の記事で詳しく書いたので、そちらをご覧いただければ幸いだ。

 もう一つ、許しがたいのは、イラクで米軍が行った戦争犯罪の中でも最悪なものの一つである、ファルージャでの虐殺をゲームにしようという動きがあることだ。ファルージャとは、イラク西部の都市で、当時の同国での最激戦地の一つであり、とりわけ2004年は

4月と11月に米軍による大規模な包囲攻撃が行われた。攻撃は無差別で、非戦闘員である一般市民も大勢殺され、救急車や病院すら攻撃対象となった。

 そうした虐殺をモチーフにゲームを制作するなど、正気の沙汰ではなく、被害者達の感情を逆撫でするものだ。また、小泉元首相も当時、国際社会が米軍を批判する中、日本の首相として、このファルージャへの攻撃を支持した(本人はもう忘れているかもしれないが)。

 報道において、常に最新の状況をより多くの人々に伝えることは、重要なことであるが、新しい情報ばかり追うあまりに、過去に何が起きたのかが軽んじられてしまうような面もないわけではない。実際、イラクは今の日本のメディアにとってニュースバリューのあるものではなく、だからこそ、先の小泉首相の発言やファルージャの虐殺のゲーム化が、ネット上で「炎上」することもないのだろう。

 筆者のキャリアの中でもファルージャでの取材は、最も危険かつ意義のあるものの一つだ。今回の定期購読記事では、2004年当時のファルージャの取材をふり返る。読者の皆さんにも、当時、筆者が受けた衝撃、ヒリヒリするような緊迫感、そして、小泉元首相の発言や虐殺のゲーム化に対し、今、筆者が感じている憤りを共有してもらえたら幸いだ。

*以下、当時の取材から。公益性を鑑み、全体の半分程度を無料で読める範囲としている。

【アーカイブ】イラク最激戦地ファルージャ取材記

 ファルージャへ行こう。無謀にも私はそう考えた。ファルージャは、人道支援関係者ですら足を踏み入れるのをためらう、「イラク最激戦地」の一つ。だが、私には、ファルージャに行かなくては、イラク戦争を語る資格がないように思えた。2004年4月の米軍による包囲攻撃を受け、女性や子どもを含む700人以上の住民が殺害されたファルージャは、まさしく「占領の悲劇」の象徴だ。そしてまた、ファルージャに行くことは、日本人人質事件、そして政府やメディアが煽り立てた「自己責任論」に対する、私なりの回答でもあった。あの事件を引き起こした、激しい怒りの根源を、この目で見ておく必要があると思ったのだ。

ファルージャの集団墓地 米軍の攻撃以前はサッカー場だった 筆者撮影
ファルージャの集団墓地 米軍の攻撃以前はサッカー場だった 筆者撮影

 一連の外国人誘拐・殺害事件の後、報道関係者も退避したのか、そこにいるのは私だけ。かつては宿泊客でにぎやかだったレストランは、やけにがらんとしている。2004年5月某日、バグダッド中心部のアル・サフィールホテル。私は、武装勢力の跋扈するファルージャでいかに安全を確保するか、独り考え込んでいた。同年2月にも、ファルージャ入りした私は、かの地がイラクの中でも別格に危険なところであることは、身をもって知っていた。カラシニコフ銃を持った地元武装勢力10人程に乗っていた車を取り囲まれ、「自衛隊を派遣した日本人は敵だ!」と罵倒されたのだ。あらかじめ危険を予測していた私は、ファルージャで人道支援を行っていたイラク人の友人Sに取材に同行してもらっていた。憤る武装勢力をSが必死に説得し宥めてくれたからこそ、私は拘束されたり、危害を加えられたりすることはなかったものの、そうでなかったら一体どうなっていたか。今、思い返しても、背筋が寒くなる。

 イラク入りする前に対策を考えてなかった訳ではない。知人を通じて、ファルージャ出身の宗教指導者に協力を仰いだが、反応はイマイチだった。そうかと言って護衛を雇うのも気が進まない。こちらは取材者として現地に行くわけだから、武器を持ち込むことは極力避けたかったし、第一、米軍の精鋭部隊ですら手を焼いているファルージャの武装勢力が相手では、たかだか数人程度の護衛をつけたところで、気休めにもならないだろう。

 助け舟を出してくれたのは、やはりSだった。ファルージャ包囲攻撃後、3回も現地入りし、支援物資を配ってきた彼が案内してくれるのは心強い。私は、Sの助言に従って、現地有力政党「イラク・イスラム党」のファルージャ支部のメンバーに取材に同行してもらうことにした。同支部は武装勢力と米軍の停戦交渉の仲介役となっている。絶対に安全という訳ではないが、護衛を雇うよりも、はるかに安全だろう。

 準備も整い、いよいよ、ファルージャを目指す。距離はバグダッドから西に約65キロ。順調に行けば1時間程で着くが、その道中もやはり危険だ。なるべく外から見えにくいよう、車の後部座席で私は沈み込むように座る。頭にはクフィーヤ(アラブ男性が好んでかぶる布)を巻き、サングラスもかけた…のだが、Sは「かえってアヤシイからやめた方がいいよ」と笑う。・・・そんなこと言われても、素顔をさらすのも危険だしなぁ。ともかく、米軍とイラク軍による検問所を越え、ついにファルージャ市内に入った。

○包囲攻撃の爪痕

 ファルージャではよくモスクを見かける。200以上のモスクがあるという、この街は「モスクシティー」との別名を持つそうだ。住民の多くは敬虔なイスラム・スンニ派で、他の地域のイラク人からは、「純朴で礼儀正しい人々」だと見られてきた。そのファルージャが「イラク激戦地」となってしまったのは、2003年4月末、小学校を占拠した米軍に対し、抗議デモを行った住民たちへ、米兵らが銃弾を浴びせたことに始まる。以来、住民と米軍との間では連日、衝突が続き、2004年4月5日には、ついに米軍は町全体を包囲しての激しい攻撃を開始した。この攻撃はイラク中の人々の反米感情に火をつけ、イラクでの外国人の誘拐・殺害が相次いで起きた。高遠菜穂子さんら日本人3人を誘拐した犯行グループ「サラヤ・ムジャヒディン」も、その犯行声明の中で「米国は広島や長崎に原子爆弾を落とし、多くの人を殺害したように、ファルージャでも多くのイラク国民を殺し、破壊の限りを尽くした」と批難していた。

 市内中心部にあるイラク・イスラム党のファルージャ支部に到着すると、支部長が会ってくれ、同支部メンバーが取材に同行してくれるよう、取り計らってくれた。Sがファルージャでの人道支援を行っていたおかげで、話が早い。早速、市内を見て回ることに。

 街中にある、かつてのサッカースタジアムは集団墓地と化していた。ここには三百人以上の遺体が埋葬されているという。市内にあった二つの墓地には埋めきれなくなったため、スタジアムとその駐車場も墓地とされたのだ。墓標には、遺体が発見された場所や着ていた服の色など、手がかりになりそうなことが記されている。爆撃でバラバラになり、身元が分からないまま埋葬された遺体も少なくないからだ。初老の男性が焼けつくような日差しの中、墓の前に立ち尽くしていたので、話しかけてみる。彼はファルージャ包囲攻撃の際に息子を失ったという。「息子のムハンマドはまだ20歳でした。彼はただ通りに立っていただけだったのに、米軍の狙撃手は息子を撃ち殺したのです。制服を見れば彼が警察官だと分かったはずなのに…」。スルタンと名乗った男性は嘆く。

 攻撃が無差別だったことは、市内を歩き回るとよくわかる。通りには、空爆された車の残骸がいくつも残され、その中には救急車もあった。市内の病院の壁にいくつも穿ったような痕がある。病院のスタッフによれば、ファルージャ攻撃の間、米軍はこの病院を包囲した上、狙撃してきたという。「包囲されている間、私達スタッフや患者が少しでも表玄関の方に近づくと弾が飛んできて、全く外に出られませんでした。この病院の唯一の救急車も、空爆に遭い、患者は即死、ドライバーも怪我を負いました。病院の電話はひっきりなしに鳴ってきましたが、救急車も出せず、医師が往診することもできないので、電話をかけて来た人々にアドバイスをすることしかできなかったのです」。

破壊された救急車 筆者撮影
破壊された救急車 筆者撮影

 ジュネーブ条約では、医療関係者への攻撃は禁止されているが、米軍はお構いなしということらしい。そのクセ、自軍の兵士が拘束されると、「ジュネーブ条約を守れ」などというのだから、呆れる。この病院では、約70人の患者の内15人が亡くなったが、電気が来なく、冷蔵室が使えないため死体が腐り始めて凄まじい死臭を発し始めた。しかたなく、住宅街に面した裏庭にとりあえず埋葬し、米軍の撤退後に掘り返して遺族がひきとっていったという。市遊深部の住宅地に行くと、家々の壁には小さな無数の穿ったような痕がある。住民達は「小さな黄色い円筒形の爆弾が何個も落ちてきた」と話すが、恐らくこれはクラスター爆弾だろう。バグダッドの市街地で見た跡と同じだ。

 別の住宅地では、直径二十メートルはあろうかという、巨大なクレーター状の穴が空いていた。すさまじい威力にぞっとする。影も形もなく吹き飛ばされたのは、アルフィヤットさん一家の家。「より安全そうな所へ避難していたので、我々家族は無事でしたが、17年間皆で汗水たらして働いて建てた家が、一瞬で消え去ってしまいました。しかも、米軍と地元武装勢力とが一時停戦で合意した、その直後にですよ。こんなことが何故許されるのでしょうか?!」そう、アルフィヤットさんは憤る。

アルフィヤットさんの家はクレーター状に地面ごと抉られた 筆者撮影
アルフィヤットさんの家はクレーター状に地面ごと抉られた 筆者撮影

○目の前で起きた拉致

 白昼堂々、カラシニコフ銃を持ちクフィーヤで顔を覆った男達が行きかう車を止め、中を覗き込む。武装勢力の検問だ。ファルージャでの取材中、こうした光景を何度も見かけた。取材には、米軍と武装勢力との停戦交渉に貢献した、イラク・イスラム党ファルージャ支部の幹部M氏が同行してくれたのだが、正直言えば少し怖い。ファルージャには、情勢が比較的安定している日を選んで何回か入ったのだが、ある日、正に拉致が行われる瞬間を目撃した。車での移動中、反対側車線を見ると、やはりクフィーヤの覆面にカラシニコフ銃の男が、イラク人と見られる男性を車のトランクに押し込んでいる!そして、その車はあっという間に走り去っていった。市内中心部の大通りで、白昼での出来事だった。拉致の瞬間を見た時、私はとっさにカメラを構えたが、M氏は「カメラを引っ込めて!!」と制止する。M氏とて、武装勢力側が激しく怒っていたら、止められるかは保障できないと言うのだ。

 それにしても、あのイラク人と思しき男性は、なぜ拉致されたのだろう。M氏は「おそらく、米軍に協力した疑いをかけられたのだろう」と言う。住民のほとんどが血縁関係にあるファルージャでは、住民同士の結束は固いが、逆に言えば外部の者に対する警戒心は強い。米軍やその関係者が様々な諜報活動を行っていることが大きいようだ。ファルージャ包囲攻撃の口実とされたのは、2004年3月31日、4人の米国人が殺され、焼かれた遺体が川にかかる橋から吊り下げられた事件だったが、この時、殺されたのは日本のメディアが当初報じたような「民間人」ではなく、民間軍事企業「ブラックウォーター・セキュリティ」の社員だった。事件現場周辺の住民達にも話を聞いたが、彼らに言わせれば、「奴ら(民間軍事企業の社員達)はファルージャ攻撃のための地図を作っていた」というのである。住民達の言っていることが本当なのかは、さだかでは無いし、例えそれが本当だとしても、むやみに殺せばよいというものではない。しかし、少なくともファルージャの人々にとっては、米軍と共に働く者は敵だったのだ。また、イラクで活動する民間軍事企業が「自爆テロに対する防衛策」として、彼らの車両に接近する車に対して無差別に発砲するなど、イラク人を傷つけたり殺したりしてきたことも事実だ。

 果たして誘拐されたイラク人男性はどうなったのだろうか。後日、オベイド氏に聞いたところ、「彼はフランスのメディアのために働いていたんです。我々が武装勢力に働きかけて解放してもらいました」と語る。なんと、解放されたのか。少々、意外だったが、よく考えてみれば、ファルージャの人々だって、最初からそんなに攻撃的だったわけではなく、米軍との衝突の中で、外部からの人間に対し神経を尖らすようになったのだろう。私に対しても敵ではないとわかると「ウチで昼ごはんをご馳走したい。来ないか」とか誘ってくる。日暮れ前にはバグダッドに帰るべきなので辞退したが、「排他的」と言われるファルージャの人々も信頼を得られれば、実は親しみやすい人々なのかもしれない。

○相次ぐ空爆とザルカウィの幻

 4月の包囲攻撃の被害実態を明らかにするためには、時間をかけて市内を歩き回ることが必要だったが、実際には難しかった。M氏とは毎日のように電話で連絡を取り合い、情勢が悪いと「今日は危険だから無理」とファルージャ入りを断念しなくてはならない日もあり、むしろそういう日の方が多かった。米軍と武装勢力の停戦は、合意されては破られ、連日のようにファルージャは空爆されていた。

 米軍の空爆の口実とされたのは、ヨルダン人テロリストで、アルカイダ幹部のアブムサブ・ザルカウィだ。米軍は「ザルカウィがファルージャに潜伏している」と主張していた。M氏によれば、米軍と現地武装勢力との間には、「米軍は今後一切ファルージャを空爆しない。治安の維持はファルージャ防衛軍に任せる」「ファルージャ防衛軍及び武装勢力はザルカウィ一派を発見した場合、拘束し米軍に引き渡す」との合意がされたのだという。だが、「ザルカウィの拠点」に対する空爆は行われ、ファルージャ市内やその周辺での米軍への攻撃も続いた。

 だが、果たして本当に空爆を受けたところにザルカウィ一派はいたのだろうか。私は、ファルージャ東部の「ザルカウィの隠れ家」として空爆された民家に行ってみた。ここは7月5日の晩に空爆され、12人が死傷したという。かなり強力な爆弾が使われたらしく、地面はクレーター状にえぐれている。何か落ちていないだろうか。私はクレーター状の爆心地に降りていき、瓦礫の中をあさってみた。だが、武器弾薬らしきものは見つからない。見つけたのは、イスラム教徒の女性が身にまとうアバヤという黒い布と、子ども服だけだった。

「ザルカウィの拠点」から出てきたのは女性と子どもの服 筆者撮影
「ザルカウィの拠点」から出てきたのは女性と子どもの服 筆者撮影

 M氏も「ザルカウィなんかいないですよ。米軍が空爆したところは、どれも普通の民家だ」と憤懣やるせないといった様子だ。これまでも、M氏は「ザルカウィの拠点」だとして米軍が空爆した家々を観に行ったが、いずれもただの民家だったそうだ。「ファルージャの近辺でザルカウィと関係すると考えられる外国人勢力が活動しているという情報はあります。韓国人の人質を殺害したグループもこうした勢力でしょう。ただ、ファルージャ市内にはこれらの勢力はいないと思います」。M氏に言わせれば、ファルージャは住民同士が皆親戚同士であり、非常に狭い社会であるため、外国人テロリストが潜伏するのは極めて困難だというのだ。

 現地で見聞きする限り、ファルージャにザルカウィがいるかどうかは疑わしいのだが、確かなことは、「ザルカウィ一派を仕留めるため」の空爆で、多くの一般市民が犠牲となっている、ということだ。空爆の間隙に訪れたファルージャ総合病院のアデル・アリ院長は苛立ちながら、こう言った。「ザルカウィなんか、一体どこにいるんですか?先月と今月の死者数の合計は、少なくとも40から50人、負傷者数は100人以上にのぼります。しかも、死者の約7割は子どもや女性達だったのですよ!!」。

○“ファルージャ武装勢力のボス”との会見

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パレスチナやイラクなどの紛争地での現地取材、脱原発・自然エネルギー取材の他、入管による在日外国人への人権侵害、米軍基地問題や貧困・格差etcも取材、幅広く活動するジャーナリスト。週刊誌や新聞、通信社などに寄稿、テレビ局に映像を提供。著書に『13歳からの環境問題』(かもがわ出版)、『たたかう!ジャーナリスト宣言』(社会批評社)、共編著に『原発依存国家』(扶桑社新書)、『イラク戦争を検証するための20の論点』(合同ブックレット)など。イラク戦争の検証を求めるネットワークの事務局長。

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