朝鮮戦争勃発から70年、終わりのない「休戦」

慶尚北道漆谷郡にある、多富洞(タブドン)戦績記念館。21日、筆者撮影。

6月25日は朝鮮戦争勃発から70周年にあたる日だ。この節目の日に未だ「休戦中」という現実が持つ意味を考えてみた。

●多富洞

「途中まで車で行けるし、30分も登れば山頂だよ。少し険しいけど子どもでも大丈夫」

南北連絡事務所を朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)が爆破した先週の週末、慶尚北道漆谷郡・多富洞(タブドン)のとあるカフェで、地元住民だという50代とおぼしき夫婦は事もなげにこう語った。

この日、私が小学5年生の息子と一緒に登ろうとしていたのは遊鶴山(ユハクサン)という標高839メートルの山だった。

目的はハイキングではなかった。多富洞一帯は、朝鮮戦争初期の1950年8月1日から9月24日にかけて、韓国の国運を決する闘いが行われた場所だ。中でも高台の遊鶴山は譲れない要地として最大の激戦地となった。その山がどんなものなのか、実際に見てみたかったのだ。

70年前の当時の状況を少し説明したい。同年6月25日の午前4時40分、当時の国境であった38度線を一斉に越えてきた北朝鮮軍は破竹の勢いで韓国内を南下、わずか一か月あまりで韓国国土の92%を占領した。

多富洞は韓国の首都ソウルから南東に約300キロ。韓国軍と米軍を主力とする国連軍は退却を重ね、川幅3~400メートルの洛東江を前面の盾とする防衛線を構築する。

避難民で膨れあがった大邱(テグ)市までは22キロ、その後は臨時首都の釜山(プサン)市を残すだけとなる。文字通り絶体絶命だった。当時の李承晩(イ・スンマン)はじめとする韓国指導部は負ける時に備え、日本への脱出も考えていた。

戦闘は双方に多大な犠牲を出しながらも、国連軍の粘り勝ちに終わる。北朝鮮軍を引きつけている9月15日に、朝鮮半島中西部の仁川(インチョン)に国連軍が上陸し戦況がひっくり返った。国連軍は9月28日にソウルを奪還した。

登山道の入り口にある案内板。「屍山血河の地であった」との一文が重い。21日、筆者撮影。
登山道の入り口にある案内板。「屍山血河の地であった」との一文が重い。21日、筆者撮影。

●山頂を断念

遊鶴山の話に戻る。溜まっていた仕事もあり、どう登るのかについて事前にリサーチを全く行っていなかった。運動着の息子とは異なり、私はジーンズに革靴というひどい出で立ちだった。

山の中腹まで車で上がると、登山路が見えた。入り口には「6.25戦死者遺骸発掘記念地域」という銀色の看板があった。戦闘当時、この山で亡くなった兵士は韓国・国連軍2300名、北朝鮮軍5690名。回収できなかった遺骸を50年後の2000年になって発掘したという内容だった。

この一帯での戦闘と発掘作業は、朝鮮戦争で生き別れになった兄弟の運命を描き、2004年に韓国で観客1174万人を集めた映画『ブラザーフッド』のモチーフともなったことでも知られる。

あれこれと息子に説明しながら、神妙な気持ちで足を踏み入れる。岩山で登山路はあまり整備されておらず、かなり険しい。足が痛い。登り始めて数分で後悔した。しかし息子はひょいひょいと先に登る。気を付けろ!と声をかけつつ追いかける。

20分ほど登ったところで、両手にストックを持ち下りてくる初老の夫婦に出会った。

「この先はどうですか」と聞くと、「階段が二つあるからそこまで登ればもうすぐだよ。15分くらいかな」との答え。息子と汗だくの顔を見合わせ喜ぶ。この日の気温は32度、さらに鬱蒼とした山にはスズメバチがまばらに飛んでいた。

だがそれから階段を二つ上るまでさらに20分以上かかった上に、頂上は見えない。それどころか山はどんどん険しくなる。そしてついに木と岩をくぐるような難所が現れた。「ここまでにしようか」「うん」。

韓国で道を尋ねると安易に「すぐ着く」という返事が返ってくるのは充分に知っていたつもりだが、いやはや。

追われるように山を下りながら視線を上に移すと、下界がよく見えた。取り合いとなるのもうなずける風景だ。同時に「水を2日飲まず戦った」「退却する味方部隊の進路に対戦車砲を打ち込んだ」という戦史の記述が思い浮かんだ。

そして前を行く息子に「なあ、今より暑い8月に、こんな険しい場所で銃とリュックを持って戦うってのは、どんな気分だったのかな」と半ば独り言のように声をかけた。

死んだのはいずれも若者たちで、息子の年齢と10も違わなかっただろう。後ろ姿が重なった。言い終わる前に声が震えた。

遊鶴山の中腹から下界を見下ろす。秋に山頂に再チャレンジする予定だ。21日、筆者撮影。
遊鶴山の中腹から下界を見下ろす。秋に山頂に再チャレンジする予定だ。21日、筆者撮影。

●北朝鮮が感じた恐怖

多富洞での戦闘は、韓国にとって亡国の危機であったが、同じ朝鮮戦争で北朝鮮もまた、窮地に追い込まれた。

1950年9月28日にソウルを奪還した国連軍だったが、韓国の李承晩(イ・スンマン)大統領と国連軍のマッカーサー司令官はそのまま38度線を越え北朝鮮側に進撃し「北進統一」を目指すことを決める。9月30日に国連軍司令官マッカーサーは北朝鮮の総司令官(金日成)に向け、「武装を解除し敵対行為をやめよ」と降伏を勧告した。

洛東江戦線をはじめ南側に兵力を集めていた上に壊滅的な打撃を受けた北朝鮮側には当時、38度線以北の自国領土を守る力が著しく不足していた。金日成が10月1日にソ連のスターリンに送った援助を求める手紙には「私たち自身の力ではこの危機を克服できる可能性はない」と率直に書いている。

一方で北朝鮮側は開戦以降、米軍の爆撃に悩まされ続けてきた。7月13日の元山(ウォンサン)をはじめ、興南(フンナム)、清津(チョンジン)そして平壌などあらゆる都市がB-29によるひどい爆撃を受け、子どもや老人、女性など一般市民の犠牲が多く出た。一方的な「虐殺」と北朝鮮はこれを記録している。その通りだろう。

10月7日、国連総会で国連軍が38度線を越えることを許可する決議案が採択されると、既に北側に進撃していた韓国軍に続き米軍も北進を開始する。10月19日には北朝鮮の首都、平壌を占領した後も北上し、ついには中朝国境の都市、恵山(ヘサン)市まで到達する。今度は北朝鮮が亡国の危機を迎えた。

これを救ったのは、中国とソ連だった。10月8日に人民志願軍の派兵を決めた中国は、10月19日に中朝国境の川、鴨緑江を越えて朝鮮半島に入る。中国は人海戦術で再度戦線を押し戻す。さらに11月にはソ連の航空部隊も参戦し、朝鮮戦争は完全に冷戦における「熱戦」となった。ソ連軍は朝鮮戦争期間中、延べ7万人が戦闘に参加した。

その後、中国と北朝鮮は司令部を合わせて戦うことになる。国連軍はソウルを再度奪われるもこれを取り戻し、戦線は38度線付近で膠着する。1951年7月から2年におよぶ交渉ののち、1953年7月27日に今も続く軍事休戦協定が結ばれた。

しかし「3か月以内に政治会議を招集し朝鮮半島からの全ての外国軍隊の撤収および朝鮮半島問題の平和的な解決問題を協議する」とした休戦協定第4条は今も守られないままだ。3か月が約70年になった。

1953年7月27日の板門店の様子。記者たちが周囲で待機している。韓国・国立記録院より引用。
1953年7月27日の板門店の様子。記者たちが周囲で待機している。韓国・国立記録院より引用。

●ボルトン回顧録騒動

24日早朝、北朝鮮メディアは金正恩委員長が「対南軍事計画を保留」したことを明かした。金日成、金正日、そして金正恩。米国によるナパーム弾を使った無差別爆撃は脱北者が飛ばすビラに姿を変えたが、戦争は今も続いている。

2018年以降、いわばこの未完の課題を解決しようとしたのが、金正恩と文在寅という分断国家の両首脳、そしてやはり当事者である米国のトランプ大統領と、中国の習近平主席だった。

出会った回数で言うと、南北首脳は4度、米朝首脳は3度、中朝首脳は5度となる。18年6月の米朝首脳会談では、朝鮮半島の非核化と朝鮮戦争休戦協定を平和協定へと転換することを同時ゴールとし、そのための信頼を構築しようという合意があったが、周知の通り今日までこれは一歩も動いていない。

一方で、18年4月から19年10月までトランプ大統領の安全保障担当補佐官を務めたボルトン氏の回顧録が話題だ。

本では朝鮮半島情勢に関する内容が多く割かれている。韓国では大統領府が「信義にもとる」と厳しい批判をしているが、多くの人々にとっては、話半分としてもその間の「裏話」を知るチャンスでもある。

内容はボルトン氏がいかに米朝合意を「邪魔」したのかという自慢だった。北朝鮮を一切信用せず、米国は妥協しないまま北朝鮮の全面的な武装解除を求める高飛車な姿勢で一貫していた。

さらに韓国の文在寅大統領を、やたらと米朝の間に割り込んでくる「おせっかい」として扱っている。19年6月の板門店での南北米三首脳のそろい踏みを振り返る場面では、「米朝ではなく南北米の三者で」と執拗に粘る文大統領の姿勢を大いに皮肉った。

だが、韓国内でこれが報じられるや「そこまでやってこその、韓国大統領だ」と逆に評価が高まっている。そしてボルトン氏らと一緒に北朝鮮を一切信頼しない姿勢を貫く安倍首相への批判も聞こえてくる。

たくさんの専門家がボルトン氏の回顧録を引用しSNSで発言した。中でも印象的だったのは近ごろ特に韓国メディアへの露出が多い軍将校出身の学者による「ボルトン、ありがとう」というコメントだ。これは「情報をくれてありがとう」というよりも、「韓国の目を覚ましてくれてありがとう」と私は読んだ。

平和協定から南北共同繁栄という、バラ色の未来を実現するのは簡単なことではない、ということだ。

19年6月30日午後、史上初めて板門店で一堂に会した南北米首脳たち。写真は青瓦台提供。
19年6月30日午後、史上初めて板門店で一堂に会した南北米首脳たち。写真は青瓦台提供。

●吸収統一と「人権」の恐怖

北朝鮮は朝鮮戦争時の「恐怖」を忘れていない。北朝鮮の執念ともいえる核開発欲求の源泉を、朝鮮戦争時の経験に求める見方も専門家に根強い。

だが今日、韓国が主張する平和もまた北朝鮮にとっては恐怖となりつつある。それは韓国が積極的に掲げる「平和共存・共同繁栄」という南北関係の未来図の先にある、吸収統一への恐怖だ。

南北は2000年に行った史上初の南北首脳会談で「二国二制度」という統一ビジョンの一致を見た。北朝鮮の金正日委員長は「完全な統一まで4,50年かかると考える」と語った。

韓国統計庁の最新の統計によると、2018年の南北の国民総所得(名目GNI)の差は53倍にのぼる。

人口も韓国(5170万人)は北朝鮮(2525万人)の2倍だ。南北の連合体はいずれ、韓国側の圧倒的な優位となり北朝鮮を飲み込む可能性があるとみるのが妥当だ。

だからこそ、北朝鮮は核の保持に頑なにこだわり、核廃棄をする場合には米国への体制保証をも徹底して求めている。だが皮肉なことに、間に立ってこの交渉を進めているのが他でもない韓国という現実がある。

北朝鮮は平和協定を通じ、核を捨てる代わりに体制の存続と経済発展という「二兎」を手に入れられるならば、判を押すだろうか?韓国は北朝鮮を安心させられるだろうか?

私は結局、それは不可能だと考えている。北朝鮮には深刻な人権侵害が存在するというのがその根拠だ。

●「大韓民国は民主共和国」

22日(現地時間)、スイス・ジュネーブで開かれた国連人権委員会で北朝鮮人権決議案が無投票のコンセンサスで採択された。18年連続となる。

政府を批判する民間メディアもデモも認められず、自由な選挙もない。住民の自由が著しく制限され、政治犯収容所の存在、収監施設での労働力搾取や公正な裁判を受けられないなど、枚挙にいとまがない。

こうした政治的権利の他に、衣食住や清潔な水などの経済的権利まで含めればさらに増える。ここで強調したいのは、どの国の政府にも人権侵害行為は存在するが、北朝鮮の場合はその度合いが遙かに強いという点だ。

そしてこうした人権侵害は南北分断、休戦状態という特別な状況をもって正当化される。国家保安法など似たような状況は韓国でも当然ある。分断を言い訳に国家が暴力を振るう「分断暴力」こそが、「分断体制」の悲劇だ。

今はまだ韓国市民にとって、北朝鮮の市民は他人に過ぎない。だが韓国が北朝鮮と連合体を構成し往来するようになる場合に、北朝鮮の人権問題に触れずにいられるだろうか?

住民統制をしてこそ体制が存続すると考える金正恩政権を擁護し続けるということは、いつになるとも分からない統一の美名の下で、北朝鮮の市民たちの犠牲を強いることに他ならない。

「民主共和国」を憲法第一条に据え、新型コロナ対策にも民主主義の伝統を持ち出すほど民主主義にプライドを持つ韓国で、そうした態度は正しいのだろうか?

この大命題に韓国社会は未だ答えられていない。「相互不干渉」という南北関係の原則の殻に閉じこもっている。

険しい遊鶴山の登山道。朝鮮半島の現代史を象徴しているかのようだった。21日、筆者撮影。
険しい遊鶴山の登山道。朝鮮半島の現代史を象徴しているかのようだった。21日、筆者撮影。

●解けない方程式

見てきたように朝鮮半島のバラ色の未来は、三段階で整理できる。

まずは「朝鮮戦争の休戦協定を平和協定へと変える」こと、次に「二国二制度の南北関係を通じ分断体制を緩和させること」、そして最後に「民主的な形での統一」となる。

だが今は、南北連絡事務所の爆破が象徴するように土台となる合意や認識があやふやで、この複雑な方程式をどう解いていくのか先が見えない状態だ。

一つ言えるのは、このままではいずれ南北市民の意識は「南北は他人として、隣人として生きよう」と変わっていくだろうということだ。

諦める節目なのか、やり直す節目なのか。

朝鮮戦争が固定化させた分断体制はかくも強固で動じない。実に苦々しい70周年を迎えた。