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阪神でこれだけ愛された人間はいないんじゃないかと…そう言って惜別の涙を流した狩野恵輔選手

岡本育子フリーアナウンサー、フリーライター
引退会見で「本当に幸せな17年間でした」と、“うれし涙”を流した狩野選手。

 9月18日12時20分、スーツ姿で会場に現れた狩野恵輔選手(34)の「本日はお忙しい中、お集まりいただきまして、ありがとうございます。わたくし狩野恵輔は、今シーズンをもって引退を決意したことを、ご報告いたします」という挨拶で、現役引退発表の会見が始まりました。

 時には笑顔で、時には真剣な表情で、そしてファンの方々への言葉を口にしたところで堪えきれずに溢れた涙。狩野選手らしい、その思いが真っすぐに届く20分間でした。のちほど全文をご紹介します。

2000年ドラフト組、最後の1人

懐かしいユニホームですねえ、これ。2014年のみやざきフェニックス・リーグにて。
懐かしいユニホームですねえ、これ。2014年のみやざきフェニックス・リーグにて。

 2000年のドラフト3位で前橋工高から阪神に入団した狩野恵輔選手。同期には藤田太陽投手、伊達昌司投手、赤星憲広外野手、加藤隆行投手、沖原佳典内野手、藤本敦士内野手、梶原康司内野手がいました。3日前の15日に引退会見を行った安藤優也投手が2001年ドラフト組の最後の1人で、2000年組は今回の狩野選手が最後ですね。

 まだ狩野選手が1軍に定着していなかった頃、練習が終わったあとの鳴尾浜でプライベートな話も含めて取材させてもらったことがありました。「まあ座りましょか」と狩野選手から言ってくれて、ロングインタビューOK!という構えに感謝したのをよく覚えています。当時、連載していた携帯サイトの記事で出したはずなんですが、もうそれを見ることができません。だいたいの記憶を頼りに時期を絞り、昔の取材ノートを引っ張り出したら…ありました!2006年5月のことです。

安芸キャンプ初日。ビニール手袋をつける狩野選手(右)と笑う掛布監督(左)。
安芸キャンプ初日。ビニール手袋をつける狩野選手(右)と笑う掛布監督(左)。
無事に受け取った、大きなブリ。
無事に受け取った、大きなブリ。

 

戸惑い気味に笑う選手会長です。
戸惑い気味に笑う選手会長です。
キャンプ打ち上げで挨拶をする狩野選手。
キャンプ打ち上げで挨拶をする狩野選手。

 「好奇心が旺盛なんですよ。友だちがやっていることとか、みんなやりたかった」という子ども時代。4つ上のお兄さんがやっていた野球は小学3年の秋から始め、2つ上のお姉さんの影響で小学4年から中学1年まではピアノも。腕前は?弾き語りなんかできる?「無理、無理!中学校の校歌くらいですよ。先生の退任式があったとき、全校生徒の前で伴奏しました。そしたら先生が泣いて。やんちゃな生徒だったからですね」

 お父さんには小さいころから「努力しなさい」と言われてきた恵輔少年ですが、「勉強だけは努力できんかった!物にはつられるけど。やっぱり目標がないとダメですね。でも野球にはそれがある」とキッパリ。いやいや。勉強にもありますよ、目標。

 寮に住んでいる時、次に球を受ける先発投手とよく話し込んでいて、寮を出てからは遠征先でコミュニケーションを取っていたと言います。「ピッチャーって自分のことを話す人が多いんですよ。僕は聞くのが好き。あと麻雀もいいですね。頭も使うし、性格が出るのでリードに生かせるから」。すべてが野球に、キャッチャーの仕事に通じていました。

 当時、自分の性格は「けっこう無愛想」と分析した狩野選手。それはまあ照れ屋なのもあるでしょう。また「活躍してから騒いでほしいんです。僕も“天狗”になるタイプなので(笑)。だから、ちょいちょいでいいです。たま~に打った時とか、いいリードをした時とか」と。これが2006年5月のことで、その数か月後からもう “ちょいちょい” では済まなくなるんですよね。

傷も苦悩も跳ね返してきた野球人生

 2004年、2005年と2試合ずつ経験した1軍ですが、この年は10月14日の1試合のみでした。しかし2006年は島野育夫監督、立石充男監督代行のもとでウエスタン・リーグ連覇を果たし、3年ぶり4度目のファーム日本一に輝いたシーズン!しかも狩野選手は打率.348でウエスタン首位打者のタイトルを獲得しています。

ことし7月は、ファームも甲子園で『ウル虎の夏』。
ことし7月は、ファームも甲子園で『ウル虎の夏』。

 このとき規定打席をクリアした中では同僚の赤松真人選手が.300でリーグトップだったのです。しかし到達していなかった狩野選手が、足りない打席すべて凡退と計算しても上回るため首位打者に。最後の最後で3割に戻した赤松選手は、さぞ悔しいだろうと思いきや「恵輔なら仕方ない」と同級生の活躍を自分のことみたいに喜んだ、そんな記憶があります。

ことし5月、淡路での野球教室でノックを打つ狩野選手。
ことし5月、淡路での野球教室でノックを打つ狩野選手。

 その年、山形で行われたファーム日本選手権では1回に喜田剛選手、桜井広大選手、藤原通選手の3者連続ホームランで、前年の覇者・ロッテを圧倒。6対0の勝利です。見事、4安打完封勝利を挙げMVPにも選ばれた中村泰広投手が、自身のコメントもそこそこに「狩野のリードのおかげ。狩野に聞いてあげて」とたたえました。狩野選手も、最終戦で防御率のタイトルをサーパス・岸田護投手に奪われた中村泰投手だけど、日本選手権ではMVPに!と意気込んでいて、その公約を果たせたことが何より嬉しいと言っていたんですよね。ええ話でしょう?

 そんな活躍を引っさげ、背番号を99に変えた狩野選手は翌2007年、初めて1軍で開幕を迎えます。そして4月20日、巨人4回戦(甲子園)の延長12回に代打で出場し、豊田清投手から放ったプロ初ヒットがサヨナラ打!翌日には先発出場して、巨人・久保裕也投手からプロ初ホームラン!忘れられないプロ7年目のシーズンとなりました。

 2008年春には右ひじの手術をするも、2009年は1軍で自己最多の127試合に出場。しかし2010年秋に腰を痛めて手術、2013年には育成契約(7月に支配下へ復帰)も経験しています。順風満帆な選手生活ではなかったかもしれませんが、それゆえに後輩たちへのアドバイスは惜しみなく送っていましたね。チームメイトにも、ファンにも、戦い続けるその背中で語ってきたことは非常に多かったと思います。

引退の2文字が大きくなった夏

 では18日の引退会見を、ほぼノーカットでご紹介しましょう。

会見の前半は涙もなく、本人としては順調だったようです。
会見の前半は涙もなく、本人としては順調だったようです。

 まず、改めて現在の心境を。「今はすっきりしています」。ここへ至るまでに葛藤は?「そうですね。やっぱり、決める前まではいろいろ葛藤がありましたけど、もう決めてからは本当に思い切って野球ができているなと」

 引退を決めた一番の要因は?「やっぱり自分の実力というか、そういうのが落ちてきたなというのは、だいぶ感じたので。その時に、そろそろ引き際かなと思いました」。それはいつごろ?「引退というか、ことしシーズンに入る前にもう覚悟を決めて、なるべく1年間1軍の戦力としてできるようにと思っていたんですけど。まあ開幕してすぐファームに行きまして、それから上がれなかったので、だんだん自分でもダメなのかなという気持ちでした」

3月24日の中日戦(鳴尾浜)、8回に1号の逆転3ラン!
3月24日の中日戦(鳴尾浜)、8回に1号の逆転3ラン!
先にベンチの監督とコーチが大盛り上がりです。
先にベンチの監督とコーチが大盛り上がりです。
まず筒井コーチとハイタッチ!先に生還した陽川選手と伊藤隼選手も迎えます。
まず筒井コーチとハイタッチ!先に生還した陽川選手と伊藤隼選手も迎えます。
掛布監督が最敬礼で出迎えました。
掛布監督が最敬礼で出迎えました。

 開幕時に決意?「(その時の)決意は自分の中だけですね」。頭の中で引退の2文字が大きくなったのは?「7月の終わり、もう最後ですね、8月の頭というか。その時にもう『引退しようかな』という気持ちになりました」。そのあと1軍に昇格したが、もう自分の中では…。「少し固まりつつもありましたけど、そこで出来ればまだやれるのかなという気持ちもあった。結果は、3打席立ってヒットも出なかったですし、最後に三振した時にもう無理かなという気持ちも」

 引退したいと最初に伝えたのは誰?「最初は嫁ですね」。反応は?「僕は何回もクビになりそうなことがあったんで、その1つというか今まで通りという感じだったと思うんですけど、僕の中ではもう今年の引退という言葉に限っていえば、ほぼ本当の、引退しようかなぁじゃなくて、引退するという決意で嫁さんには話しました」

 何という言葉を。「お疲れ様でした、という一言をもらいました。奥さんより子どもの方が泣いていましたし、そういう部分ではちょっとウルッときましたね」。お子さんにはどう伝えた?「もう、しっかり実力がないから辞めるっていうことは。いやだ、と言っていましたけど、それはもう仕方ないと。それはもう自分で決めたことやし、辞めるからと説得した」

 ファンの皆さんもいやでしょう。34歳、まだやれると。「そうですね。でも自分でもうできないって思った瞬間が来てしまったので。そのことに関して、本当に応援してくださったファンの方には申し訳ないですけど、まあ最後は自分の意思を尊重します」。金本監督にはいつ?「僕がファームに落ちたあと広島3連戦があって、その3連戦が終わった夜に電話しました。ほんとにお疲れさんと。また時間があったらメシでもいこうかって言ってもらいました」

「本当に幸せな17年間でした」

 どんなことが思い出される?「思い出はいろいろありますけど、うーん。こんな言い方はおかしいですけど…やっぱり普段のみんなとの会話だったり、コーチとの会話だったり。そういうのが一番印象に残っているというか、楽しかったですね」

タマスタでの開幕戦、試合前に伊藤隼選手と話しているところ。
タマスタでの開幕戦、試合前に伊藤隼選手と話しているところ。
これは5月17日の鳴尾浜。今成選手(左)と試合後のランニング中です。
これは5月17日の鳴尾浜。今成選手(左)と試合後のランニング中です。
6月23日、甲子園での試合が終わったところ。江越選手と守備の話?
6月23日、甲子園での試合が終わったところ。江越選手と守備の話?

 あの鮮烈なプロ初安打が思い浮かぶ。「いやもう、そうですね。あのシーンが本当に。まあ僕の実家にも(記事や写真が)飾ってありますし、本当に印象に残る一打です。まあ他にも少ないヒットの中で、いろいろ思い出深い一打だったり、キャッチャーのほうで思い出に残るシーンもあるので、これっていうのは難しいですけど。やっぱりあのサヨナラは自分の中でも大切な思い出ですね」。その翌日はプロ1号。「そうですね。手応えもありましたし、あの時はちょっと“いきすぎやったな”(笑)と、今でも思います」

 山あり谷ありの17年でした。「ほんとに、なかなか普通の野球選手じゃ経験できないことをいっぱいしてきたんで、それは自分の財産であり、誇りでもあると思います。これからもしっかり胸に刻んでいきたい」。故障、育成契約など辛い時期も長かった。「辛い時期は長かったですけど、それを超える楽しいこともいっぱいあったので、僕は本当に幸せな17年でした。仲間とか家族とか、僕の周りの人に支えられたなと思います」

 育成から這い上がっって復活したこと。「野球が好きで、野球しかできなかった。それができたというか、そういうふうに“復活”と言われますけど、自分の中では本当に大好きな野球をただやってきただけ、ですね」。大好きな野球、イヤになったことは?「もちろん怪我をしている時はイヤというか、しんどいなとは思いましたけど、まあ好きな野球ですからね。我慢できました」

阪神で一番愛された選手かも

 狩野さんにとって甲子園球場とは。「世界一!ですね。はい。その言葉以外ないですね」。そしてファンの声援は?「本当に、それで僕はすごい助けられましたし、ファンの方に本当に助けられたというのを自分で感じています。もちろんチーメイトもそうです。いろんな先輩がいますけど、まあ阪神でこれだけ愛された人間はいないんじゃないかと…」

 ここで涙がこみ上げ、絶句してしまいます。続けて、インタビュアーから「選手会長を務めるなど人望もありました」と言われ、答えようとするも言葉が出ません。うつむき、涙をぬぐって約15秒後に「いや…僕が…支えられ…ました」と嗚咽交じりに絞り出し、そこからハンカチで目を抑えるなど約20秒経過。でも顔を上げ「支えられて、こういうふうに17年間できたのは、僕の誇りです」と、涙声ながらもキッパリ言いきりました。

こらえきれずに涙をこぼし、手で拭いました。しばらく言葉が出ません。
こらえきれずに涙をこぼし、手で拭いました。しばらく言葉が出ません。

 今、頭に浮かぶのはどんなシーン?「やっぱり、みんなで喜んだのが一番の印象ですね」。昨年は代打の神様として声援も大きかった。

「そうですね。それで打席に立つのがすごく楽しかったです」。あと押しされた?「いや、あと押ししかないですね。僕は、ヤジも僕に対する応援だと思っていたので、本当に全部あと押しされました」

 群馬から関西に来て17年。「関西の方はみんな温かくて、すごく支えられたというか。関西が好きになりました」。今後については?「まだ決意したばっかりなので何も考えてないですけど、これから家族と一緒に考えます」

 改めて、ご家族に。「本当にありがとうの一言ですね。今度は子どもたちの夢をサポートしたい」。そしてファンの皆さんへ。「17年間、そんなに成績を残した選手じゃないですけど、ほんとに最後の最後まで応援いただいて、ありがとうございました」

 また涙声で鼻をすする狩野選手に、会場から大きな拍手。続けて球団から花束贈呈が行われ、締めは記者陣による囲み取材です。

泣かないつもりだったのに…

 流した涙はくやし涙?うれし涙?「うれし涙ですね、どっちかというと。まあ安藤さんより耐えられたんで、よかったです」と言ってニヤリ。みんなも爆笑でした。安藤さんの会見を見たんですね?「はい、見ていました。安藤さん、泣かないって言ってたのに(笑)。僕も泣かないと思って頑張ったんですけど」

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 99番に対する思いを。「99番になってから1軍で出るようになったんで、思い入れは強いですし、本当に自分の中で誇りという番号ですね」。選手会長の後任は?「まだこれから。選手のみんなと決めたい」

 引退を決意してからの1軍、どんな思いだった?「うーん、どんな思いというか、最後はやっぱり1軍でやりたいっていう気持ちはあったので、そのために気持ちを絶やさずにやってきたつもりなので、まあ嬉しかったですね」

 他の選手に報告は?「きょう全部、回りました」。若い選手に伝えたいこと。「そうですね。優勝メンバーでもないですし…。あきらめずに頑張れというのが、僕からいう言葉では適当なのかなと思いますけどね」

 以上が会見と囲み取材でのコメントでした。なお狩野選手の引退セレモニーは最後のウエスタン・広島戦の、甲子園開催に変更された27日か28日のどちらかで行われる予定です。詳細は後日発表されますので、球団の公式サイトなどでご確認ください。

「狩野さんは僕の“鑑”」と原口選手

 ここで、同じ7年目の同じ4月に、同じ巨人戦でプロ初安打を放った原口文仁選手の話を少し。狩野選手との思い出を聞くと「同じ頃に腰を痛めていたので、治療に行ったり、意見交換したり。トレーニングも一緒にやらせていただきました。1軍に上がって、あれだけ活躍した先輩の後に、自分も続けていけたっていうのはありますね」と言っています。

3月17日の開幕戦、イニング間にマスクをかぶって投球練習を手伝う狩野選手。
3月17日の開幕戦、イニング間にマスクをかぶって投球練習を手伝う狩野選手。

 「僕にとっての “鑑(かがみ)” です。いいお手本、道を作ってくれた。そのおかげて僕も頑張れました」と感謝の言葉。そして「去年も、一番最初の試合で…」と。はい、すべて言わなくてもわかります。昨年の4月27日、支配下登録と1軍昇格がダブルで訪れた甲子園の巨人戦ですね。あの時の原口選手のコメントをもう一度書いておきましょう

「岩田さんが追加点を取られたところで、4回くらいから動き始めました。ストレッチをしていたら狩野さんが『5回にピンチヒッターの可能性もあるから、下で振ってていいよ』と言ってくれて」。それでベンチ裏の部屋に移動して素振りをし、狩野選手の予言通り5回に代打で出番が来たんですね。ヒットはなかったものの、そのままマスクをかぶり8回の2打席目で左前打!初めて1軍を経験する後輩の心境を察する、さすがのアドバイスでした。

 そんな狩野選手への、もちろん掛布監督への感謝を込めて最後の広島戦には出たいと、原口選手は左わき腹痛からの復帰を目指して頑張っています。

同期で同い年の、もと小虎から

 最後に、同期入団の中で同い年だった加藤隆行さん(34)にも話を聞いてみました。長崎工高から入った加藤投手の背番号は62番、狩野選手は63番。背番号も近いですね。高校出のバッテリーだから、ともにブルペンで過ごした時間も多かったでしょう。加藤さんは在籍4年でしたが、引退の報を受け「17年はすごいですね!安藤さんより長い。さびしくなりますね」と言います。

最後に花束を贈られた狩野選手。本当にお疲れ様でした。
最後に花束を贈られた狩野選手。本当にお疲れ様でした。

 思い出は?「寮にいたころ、よく狩野くんの部屋へ泊りにいきました」。同じ寮内で“泊りにいく”ってのも不思議な感じですけど、いろんな話をしたのかな?「そうですね!」。なるほど。「狩野くんは真面目な性格で、B型ですが部屋もきれいで、若い時からしっかりしていました。僕とは逆で(笑)」

 近々、久しぶりに会うとか。17年間、ケガや逆境と戦い続けた同級生を「ねぎらいます!」と張り切っていました。

       <掲載写真は筆者撮影>

フリーアナウンサー、フリーライター

兵庫県加古川市出身。MBSラジオのプロ野球ナイター中継や『太田幸司のスポーツナウ』など、スポーツ番組にレギュラー出演したことが縁で阪神タイガースと関わって約40年。GAORAのウエスタンリーグ中継では実況にも挑戦。それからタイガースのファームを取材するようになり、はや30年が経ちました。2005年からスポニチのウェブサイトで連載していた『岡本育子の小虎日記』を新装開店。「ファームの母」と言われて数十年、母ではもう厚かましい年齢になってしまいましたが…1軍で活躍する選手の“小虎時代”や、これから1軍を目指す若虎、さらには退団後の元小虎たちの近況などもお伝えします。まだまだ母のつもりで!

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