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「天国から見守っていて」旅立って3年 猫のりょうま駅長は今も地域のたからもの

西松宏フリーランスライター/写真家/児童書作家
りょうま駅長。制帽がよく似合い、凛とした風格があった(2016年5月、筆者撮影)

 JR芸備線の志和口駅(広島市安佐北区白木町)で、約7年間、猫駅長を務めた「りょうま」(オス、推定14歳で没)が虹の橋を渡って2月12日で丸3年になる。駅長就任以来、少子化、過疎化がすすむ地域に約2万人を呼び寄せた功績を持つりょうま駅長。地元の人たちからは今もその存在を偲ぶ声が聞かれる。

2022年版カレンダーはわずか2日で完売 

 JR広島駅から芸備線に乗って約50分。JR志和口駅前には「ネコ駅長 りょうまの碑」と題された石碑があり、こんな謝辞が刻まれている。

「地域に賑わい

 人々に癒しと

 元気を

 ありがとう」

 石碑は2019年7月、「りょうまを偲ぶ会」(前りょうまを見守る会)のメンバーや有志が建立した。右隣には御影石のモニュメントもあり、制帽にネクタイ姿のりょうまの絵が描かれている。こんな石碑がある駅は国内でも珍しい。

芸備線のJR志和口駅(広島市安佐北区白木町)
芸備線のJR志和口駅(広島市安佐北区白木町)

志和口駅前にある「りょうまの碑」と中原さん。「りょうまの死後、駅を訪れたファンから『何か功績を伝えるものを』との声が相次ぎ、地元産の花こう岩に謝辞を刻んで建立しました」(中原さん)
志和口駅前にある「りょうまの碑」と中原さん。「りょうまの死後、駅を訪れたファンから『何か功績を伝えるものを』との声が相次ぎ、地元産の花こう岩に謝辞を刻んで建立しました」(中原さん)

石碑の右隣にあるモニュメントにはりょうま駅長の絵が描かれている
石碑の右隣にあるモニュメントにはりょうま駅長の絵が描かれている

 りょうまは2012年から2019年まで約7年間、同駅で猫駅長として活躍した。

「2019年2月12日が命日だから、りょうまがいなくなってもう3年。早いですね。今でも『りょうまはいい猫じゃったなあ』と話に花が咲くことも多いんですよ」。そう話すのは、同駅の元駅長で、りょうまを保護し、世話をずっと続けてきた「りょうまを偲ぶ会」会長の中原英起さん(76)だ。

 昨年(2021年)11月、200部作ったりょうまのカレンダーは、わずか2日であっという間に売り切れた。カレンダー制作に携わった同会の五石健一さんはこう話す。

「カレンダーは2021年版で最後にする予定だったんですが、購入して頂いた方から『来年も作ってほしい』『りょうまの凛々しい姿を部屋に飾っておきたい』といった意見が数多く寄せられ、2022年版を作ることになったんです。こんなに反響が大きいとは驚きです。りょうまは今もたくさんの人たちに愛されているんだなと」

2022年版のカレンダー。駅での様子など21枚の写真を掲載。虹の橋を渡って3年が経った今も人気(偲ぶ会提供)
2022年版のカレンダー。駅での様子など21枚の写真を掲載。虹の橋を渡って3年が経った今も人気(偲ぶ会提供)

 同会のSNS担当の一人でもある五石さんは、5年前、ニュースでりょうまの活躍を知り、初めて会いに行った。「駅長という役職にふさわしい貫禄があり、凛々しく男前なところに惹かれました」。現在は、在りし日のりょうまの姿をこれからも伝えていくため、動画も制作。YouTubeの「りょうまを偲ぶ会公式チャンネル」に公開している。

 中原さんはこう話す。「りょうまが残してくれた功績を忘れず、志和口駅にはこんなに立派な猫がいたんじゃということを、後世に語り継いでいくことが大事だと思っています」

地域に賑わいをもたらし、多くの人たちに愛された一匹の猫

 りょうまが同駅に現れたのは2010年のことだった。当時のことを中原さんはこう振り返る。

「前から猫は何匹かいたんですが、りょうまはどこかからやってきて、この駅に自然に居ついたんです。居心地がよかったのでしょうか。切符の自販機や改札口、ホームなど駅で自由に過ごしていました。とても人懐こくてね。次第に駅を利用する人たちに可愛がられるようになったんです」

 そのうち、地域の人たちの中から「この子は触っても嫌がらないし、毎日、駅を巡回して乗降客の安全を見守ってくれているかのようじゃ。ならば、和歌山のたま駅長のような猫駅長になってもらったらどうじゃろか」という声があがった。手作りの制帽をプレゼントしたのをきっかけに、2012年11月、JR非公認ながら「りょうま駅長」が誕生した。

駅で大活躍していたころのりょうま駅長(2016年5月、筆者撮影)
駅で大活躍していたころのりょうま駅長(2016年5月、筆者撮影)

 近くの安芸高田市には毛利元就の郡山城跡があり、当初は「もとなり」という名前になりかけたそうだが、凛々しい顔が坂本龍馬を彷彿とさせ、なにより呼びやすいからとの理由で「りょうま」と名付けられた。2014年には、りょうま駅長を地域でもっと盛り立てていこうと、中原さんが中心になって地域住民らがファンクラブ「りょうまを見守る会」(会員は当時約60人)を結成した。

 りょうまは、駅舎やホーム、線路など周囲を見回って〝点検〟したり、電車がくると乗降客の出迎えや見送りをしたりして1日を過ごすのが日課だった。その活躍ぶりが新聞、テレビ、雑誌などで伝えられると人気に火がつき、全国から大勢の猫好きたちが「りょうま駅長に一目会いたい」と同駅を訪れるようになった。

「ちゃんと左右を確認してから線路を渡っていた」との目撃談も。りょうまは駅のシンボル的存在として地域の人たちを和ませた(2016年5月、筆者撮影)
「ちゃんと左右を確認してから線路を渡っていた」との目撃談も。りょうまは駅のシンボル的存在として地域の人たちを和ませた(2016年5月、筆者撮影)

 当時、駅では、中原さん手作りの「りょうま駅長の1日」と書かれたポスターや写真などを常設展示。また、見守る会や近隣の人たちが協力し、観光客向けに名刺や缶バッジなどのグッズを作ったり、りょうまがそばにいるときは一緒に記念写真を撮ったりして、りょうまにわざわざ会いにきてくれた人たちをもてなした。

 2016年4月15日には、りょうまを見に訪れた人が1万人に達し、見守る会がくす玉を割って祝福。翌5月には駅前に記念樹としてシャクナゲが植えられた。

 筆者もそのころ、雑誌の取材で勤務中のりょうまに会いに行ったことがある。人なつこく、誰が来ても動じず、堂々とした姿は「猫駅長」の名にふさわしく、一度会うとまた会いたくなってしまう、そんな印象を抱いたのを覚えている。

駅務室での一コマ。寝るのも駅長の仕事のひとつ(2016年5月、筆者撮影)
駅務室での一コマ。寝るのも駅長の仕事のひとつ(2016年5月、筆者撮影)

 志和口駅がある広島市安佐北区白木町は、かつては同市中心部へ向かう人たちのベッドタウンとして賑わったが、2012年には少子化の影響で町内の高校が閉校になるなど、人口は減り続けている。志和口駅の1日の乗車人数は1970年代は千人以上だったが、りょうまが現れたころは500人程度にまで減った(広島市統計書による)。

「りょうまが駅長になったことで、全国から大勢の方がやってきて駅に活気が出ただけでなく、りょうまは地域の人たちを明るくしてくれたんです。『りょうま、今日は元気かね?』と、りょうまのことを気にかけて駅にやってきたり、りょうまの話題がきっかけになって会話が弾んだりして、住民同士の交流が深まりました。交通安全などのイベントに参加すると子どもたちは喜び、啓発にも貢献しました。報道でりょうまが有名になるにつれて、地域の人たちはりょうまのことを、まちの誇りのように感じていたんじゃないかと思います」(中原さん)

駅を利用する人たちを見守るりょうま(2016年5月)
駅を利用する人たちを見守るりょうま(2016年5月)

「一緒に運行再開を祝いたかった…」永遠の旅立ち

 2018年7月、西日本豪雨災害が発生。JR狩留家駅と白木山駅間にある橋梁の橋脚が倒壊し、芸備線は全線で不通になった。志和口駅でも線路が浸水。電車に乗ってりょうまに会いに行くことはできなくなってしまった。駅はひっそりとし、りょうまも寂しかったに違いない。

 そんななか翌19年1月下旬、りょうまが体調を壊す。腎臓病だった。少しずつ食欲がなくなり、動物病院に入院した。病院までは車で約40分かかるが、中原さんは毎日欠かさず見舞いに通った。

「食べられないので、点滴で栄養をとってね。だんだん痩せていって、体重は6キロあったのに3キロくらいにまで減りました。かわいそうで見るに耐えられないほどでした。先生からは『入院中に万が一、容体が急変したら心残りなことになるかもしれない。慣れ親しんだ場所に連れて帰ってあげたら』と勧められ、10泊した後、11日目に退院したんです」

 中原さんは「病院から連れて帰る車内でのりょうまの様子が今でも忘れられない」という。「退院できて私も嬉しかったので、信号で停まったときとかに、りょうまって何度も声をかけたんです。すると、名前を呼ぶたびに『ニャー』って返事してね。りょうまも帰れるのが嬉しかったんでしょう。駅に着くと、ゆっくりとですが、駅舎内をいつもどおり巡回しました。自分の役目だとでもいうかのように…。それが駅長としての最後の仕事でした…」。翌2月12日夕方、りょうまは中原さんとよく過ごした駅務室で息をひきとった。

駅の待合室に設けられた献花台。たくさんの生花が全国から届いた(中原さん提供)
駅の待合室に設けられた献花台。たくさんの生花が全国から届いた(中原さん提供)

 2日後の14日、同駅でお別れ会が開かれた。待合室に設置された献花台には、全国のファンらから送られてきた生花が供えられた。住民や駆けつけたファンなど約100人が参列し、「おつかれさま」「よくがんばった」「ありがとう」などと遺影に声をかけた。テレビ局4社がその模様を取材した。

 中原さんは「りょうまは地域に癒しと元気、明るい話題を提供してくれた。運行再開をりょうまと祝おうと計画していたのに…」とむせび泣いた。最後には亡骸を抱いて、一緒に駅舎内を歩いて回った。

1ヶ月後、地元公民館で行われたりょうまを偲ぶ会の様子。約130人が出席し、会場からはすすり泣く声も(中原さん提供)
1ヶ月後、地元公民館で行われたりょうまを偲ぶ会の様子。約130人が出席し、会場からはすすり泣く声も(中原さん提供)

 中原さんの集計によれば、駅長就任以来、りょうまに会うために同駅にやってきたのはのべ1万9300人にのぼった。西日本豪雨災害で芸備線が不通になって以降も、車で770人がりょうまに会うため、同駅にやってきたそうだ。

 4月になると、ようやく志和口駅を含む三次ー中三田間が復旧。10月には1年3ヶ月ぶりに全線の運行再開に至った。「もしりょうまが生きていたら、運行再開をすごく喜んだはず」と、中原さんは当時を振り返った。

「みんなで乗ろう芸備線」を合言葉に

 芸備線は備中神代(岡山県新見市)ー広島(広島県広島市)間を結び、全長は159.1キロに及ぶ。昨年6月、JR西日本は乗客が最も少ない岡山県新見市と広島県庄原市の一部区間について、「運行のあり方を地元と協議したい」との意向を示した。開業から約100年にわたって備北地方の繁栄を支えてきた芸備線だが、利用者の減少により、一部区間の存続が危ぶまれている。

 庄原市では危機感を募らせた有志らが募金を募り、昨年11月、カープのラッピング列車の運行を実現。カープ号運行に合わせて、りょうまを偲ぶ会もイベントに参加した。備後庄原駅前には「絆 みんなで乗ろう芸備線 白木町」と書かれたハートマークが入ったりょうまの大きな写真パネルが飾られ、イベントの盛り上がりに一役買った。

志和口駅近くに飾られているりょうまの横断幕
志和口駅近くに飾られているりょうまの横断幕

 芸備線の利用を呼びかける活動は沿線各地で行われているが、2月7日に行われたJR西日本と沿線自治体との利用促進会議では、「昨秋以降のイベントで週末利用は増えたが、日常的な利用は伸び悩んでいる」との課題が報告され、日常利用を伸ばすことが最重要課題にあがった。

「志和口駅がある三次ー広島間でも、もしこのまま利用者が減り続ければ、2時間に1本程度に減便、あるいは1両に減車されるなどして、今より不便になるかもしれません。鉄道を残すということは、つまりは乗るということなんです。地元の人が車ではなく、もっと電車を日常的に使うと同時に、地域活性化策を立てて、よそから来る人を増やすなど利用を促進していく努力を続けるしかないと思うんです」と中原さんはいう。

 今、よく尋ねられるのは、りょうま駅長の後を継ぐ猫についてだという。「りょうまは駅に自然と住み着いた猫。誰になでられても平気だし、呼んだら必ずくるし。ひとりで行動でき、世話をしていて手間がかからず、100点満点の猫でした。もしそんな資質を持つ〝りょうま2世〟のような猫がいたとしたら、私も嬉しいですけど、そんな猫はめったに現れないとも思うんです」

りょうまの遺骨は中原さん宅で保管している。昨年の命日には三回忌が行われた。今年の命日はコロナ禍のため特別なイベントは行わない(中原さん提供)
りょうまの遺骨は中原さん宅で保管している。昨年の命日には三回忌が行われた。今年の命日はコロナ禍のため特別なイベントは行わない(中原さん提供)

 偲ぶ会ではいま、こんな構想をひそかに思い描いている。それは志和口駅の近くに「りょうま駅長記念館」をつくること。在りし日のりょうま駅長の写真パネルや遺品などを展示。また、ここでしか買えないりょうまグッズを販売するなどして集客しようというのだ。実現できるかどうかは今のところわからないが、もしできれば話題になるにちがいない。

 中原さんは笑顔でこう続ける。「少子化、過疎化がすすむまちに、大勢の人を招き、明るい話題を提供してくれたりょうま駅長は、今も地域のたからものです。世話役を務めることができた私は幸せ者でした。私たちはりょうまに癒され、元気づけられましたけど、私がりょうまから学んだことは、人を元気づけられるような存在に、自分もなりなさい、ということでした。少しでも地域が賑やかになり、鉄道を利用してくれる人が増えるよう、これからも地域の人たちとともに頑張っていきたい。そんな私たちを、天国からしっかりと見守っていてほしいです」

りょうま駅長はこれからも多くの人の心の中で生き続ける(2016年5月、筆者撮影)
りょうま駅長はこれからも多くの人の心の中で生き続ける(2016年5月、筆者撮影)

フリーランスライター/写真家/児童書作家

1966年生まれ。関西大学社会学部卒業。1995年阪神淡路大震災を機にフリーランスライターになる。週刊誌やスポーツ紙などで日々のニュースやまちの話題など幅広いジャンルを取材する一方、「人と動物の絆を伝える」がライフワークテーマの一つ。主な著書(児童書ノンフィクション)は「犬のおまわりさんボギー ボクは、日本初の”警察広報犬”」、「猫のたま駅長 ローカル線を救った町の物語」、「備中松山城 猫城主さんじゅーろー」(いずれもハート出版)、「こまり顔の看板猫!ハチの物語」(集英社)など。現在は兵庫と福岡を拠点に活動。神戸新聞社まいどなニュースで「うちの福招きねこ〜西日本編」連載中。

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