「忖度」は悪くない。

(Tony J Burns/SIME)

「忖度(そんたく)」という言葉を来日30年目の今年になって初めて認識した。言わずしてキッかけはいわゆる「森友事件」である。初めて聞いた点において、私などが例外でもないようである。朝日新聞が行なった調査でも、「忖度」を今回で初めて知ったと答えた日本人が半分近くいる。それもそうなるだろうと頷ける。同新聞のデーターベースによると、1980年から93年の間に新聞上で言葉として「忖度」が登場したのは数回だけだという。過去を振り返り、全国版に忖度が登場した360回の内の5分の1が2017年だという。

森友学園に対して安価での国有地の払い下げした問題の中で「忖度」たる言葉を繰り返し見聞きしたため「忖度」イコール「悪」として脳内でリンクされている者も多いのではないか。そんな中で、今の今まで気づかなかった大事なことに気づく。「忖度」そのものは悪ではない。今回、発生した場所によって「忖度」が悪と化しているだけである。もう一点「森友問題」に「忖度」が悪用されているのである。

辞書に「忖度」と引くと、「相手の気持ちを慮(おもんばかる)」つまり、相手の気持ちを思いはかるとの意味であるとして登場している。どちらかと言うと至って清らかな概念である。全くの同意ではないが、比較的この国で日常会話の中で使われる「空気を読む」にも近い。無論「忖度」は日本文化固有のものではない。人間社会ならどこにでも存在している。仮に日本的な特徴があるとするならばそれは度の違いであると言えよう。

日本は「ハイコンテクスト文化と称される。つまり同質性の強い文化であると言う意味。それらの文化における特徴の一つは、日本で一般に使われること言葉で言うと「1言って10解る」や「阿吽の呼吸」などで存在する点である。この手の社会では、言葉によるコミュニケーションよりも察する文化が、つまりコミュニケーションは、「発信者側の責任」というより「受信側の責任」であるという。察する文化は、感動するほど素晴らしいものでもある。

「忖度」は、他の国と比べ日本に色濃く存在している可能性は大いにありえる。その中で日本における全体としての「忖度」度合いの変化などがあるのか気になるが、それ以上に今の日本の最大の問題は「忖度」の偏りである。国家権力の中枢に対してのみ忖度が生じているのではないか。少し前の話になるが、例えば、リオオリンピックの閉会式にマリオに扮した安倍首相を登場させたのは「忖度」ではないか。そしてそのことについてその後に全く批評が聞こえてこないのも「忖度」ではないか。反対に弱者に対しての「忖度」が少なくなっているのも日本社会の問題である。復興大臣による被災者に対しての慮る心を欠いた言葉などは正にそうである。

「忖度」は日本の良き文化であると言えよう。大事なのは、権力から遠い存在としての弱者などに対して忖度を発揮することであり、権力や暴力に対して忖度しないことである。「忖度」は悪くない。