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「海外駐在員が住みやすい国」1位のシンガポールから見る、東京の子育てのしにくさ

中野円佳東京大学特任助教
(写真:アフロ)

米朝会談の開催地として話題のシンガポール。金融大手HSBCが毎年実施している調査では、外国人駐在員の駐在先に対する評価が最も高い国として2017年度まで3年連続で1位を獲得している(2014年度はスイスが1位)。実際にシンガポールでの子育てを経験して感じたことから、都市としての東京の課題を考える。

※この記事は、以前BLOGOSに掲載した記事に加筆修正したものです

東京での仕事・育児の両立に疲れ切る

2017年春、家族でシンガポールに引っ越してきた。夫の転勤に家族で帯同することにしたのだが、その理由の1つは、東京での仕事と育児の両立に疲れ切っていたからだ。2人の子どもは認可保育園に入ることができたものの、別々の園。電動自転車で、蒸し暑い汗だくの夏の日も、手や耳がジンジンするような寒空の日も、あちらへこちらへとまわっているとお迎えだけで40~50分かかった。もうタクシーでいいやと思った雨の日にタクシーが捕まらず、絶望的な気分になったのは一度や二度ではない。

シンガポールの出生率は未婚化・晩婚化により東京並みに低いが、女性の就労率は高い。25-29歳で89.6%、30-34歳で86.9%、35-39歳で82.9%、40-44歳で78.9%(MOM、2017年)で、子どもを産んでも女性も働くことは前提になっている。さて、思い切ってシンガポールに来てみて、実際に子育てのしやすさ、仕事との両立はどうか。

メイド文化は仕事と育児両立の柱

シンガポールや香港というと、住み込みのメイドさんがいて出産後もキャリアを築きやすいというイメージがあるのではないかと思う。実際、共働きを中心にメイドを雇用して子供の送迎・家事を頼んでいる家族をよく目撃するし、現地で働く女性たちからは「いまやメイドさんなしの生活が考えらない」「メイドさんに足を向けて寝られません」「上司に、今のポジションでメイドを雇わずに出張や残業ができないというのは無責任だと言われた」などの声を聞く。

国同士の経済格差等を利用した家事労働者の雇用については、雇用主に搾取されがちだったり、自身の家族のケアを担えなかったりする問題が指摘されている。グローバルな調査研究によると、シンガポールは欧米に比べ家事労働者の転職の自由や永住権獲得等に課題があるとの指摘もある。送り出し国の経済発展があれば成り立たなくなる可能性もある。

雇用する側も、子どもとの愛着形成や教育など悩みは尽きないし、メイドの存在が全てを解決するわけではない。ただ、国の政策的に家事労働者の受け入れ態勢を整えてきた経緯があり、何でもかんでも母親自身に要求しがちな日本に比べれば、メイドを雇える文化がシンガポールにおける「仕事と育児の両立」を成り立たせる大きな柱になっていることは間違いない。

スクールバスの充実で送り迎えが格段にラク

とはいえ、メイドがすべてのカギを握っているというわけではない。メイドを雇っているのは5世帯に1世帯程度。シンガポール自体が東京23区と同じ程度の面積の都市国家で、シンガポール人は実家が近く祖父母のサポートを得やすいという側面もある。しかし、メイドを雇っておらず、両親も近くにいなかったとしても、多くの幼稚園や学校でスクールバスが利用でき、送り迎えの必要性がないことも親の負担を非常に減らしていると感じる。

外国人の場合はコンドミニアム、シンガポール人の場合はHDBと呼ばれる公共団地に住んでいることが多い。もちろん追加の費用がかかるが、住んでいる共同住宅を登録すればマンション・団地の下まで送迎してくれる。この仕組みにより、家からの距離を気にしないで施設を選ぶことができるのもメリットだ。人気のインター校などを除けば待機児童は実質なく、入れたいところに入れられる。

日本でも一部自治体が待機児童対策として駅前などから保育園へ送迎する取り組みを始めている。バスには安全性の配慮などは徹底してほしいが、子どもも3~4歳になれば友達とバス内でおしゃべりをするのが楽しいのか、毎日が遠足かのように喜んでバスを利用しており、日本でももう少し広がればと感じる。

常に「申し訳なさ」を感じていた東京での子育て

こうしたインフラ的なもののありがたみを感じつつも、実は日本を離れてもっとも私が感じたのは、「両立」以前に、東京という都市は、そもそもの「ワーク」、そもそもの「ライフ」がものすごく送りづらかったのではないかということだ。

シンガポールに来て最初の2週間で、私はいかに東京にいたときに自分がビクビクしていたかということに気が付いた。改札をくぐるとき、残高が足りなくて通れなかったら後ろの人たちを立ち止まらせてしまって嫌な顔をされるんじゃないか。エレベーターが閉まる直前に滑り込んで乗り込んだら、早く閉めないと舌打ちをされるんじゃないか。タクシーを降りるとき、急いでおりないと後ろからクラクションを鳴らされるんじゃないか。こういうことに常におびえていた。

とりわけ子供を連れていると、強烈に感じる「申し訳なさ」。子どもを連れて電車に乗ったりお店に入れば、迷惑な顔をされないかと常に子供の行動を見張り、叱っていないといけなかった。シンガポールに来てから、子供が騒いだりモノをぶちまけたりしても「誰もそんなことで怒ったりしない」ということが徐々に分かってきた。日本から来ている母親たちがふとした瞬間に「日本に帰るのこわいもん…」とつぶやくのを聞くと、びくびくしていたのは私だけではないらしい。

日本は子育てにやさしくない?

よく「海外は子育てにやさしい」などと言われる。確かにベビーカーを押していると、ドアを開けておいてくれようとする人、子どもに話しかけてくれる人が非常に多い。特に東京と比べて違うと感じたのが、日本では主に自分も子どもがいるような年齢の女性や大学生くらいの若い男性が助けてくれることが多いのに対して、シンガポールでは中年、そしてシニアの男性が子どもに非常にフレンドリーだ。

日中に電車に子どもを連れて乗ると、一斉に3人くらい立ち上がり席を譲ってくれようとすることが珍しくない。中には、こちらが譲るべきと思える高齢の男性がよろよろと立ち上がってくれることもあり、恐縮してしまうほどだ。

日本ではまず皆スマホに熱中しているか、疲れ切っているかで子ども連れや妊婦に気付かない人が多い。スーツのサラリーマンや年配の男性が子連れに手を差し伸べてくれることは極端に少なく、むしろ迷惑顔をされることが多いので、私はそういった男性が近づいてくると必要以上に端っこによけていた。シンガポールでそれをすると「いいんだよ、お先に通りなさい」というようなそぶりで道をあけてくれ、子どもに手を振ってくれる。

これは、もしかしたら、子どもに優しいかどうかというよりも、ものすごく急いでいる人や不機嫌な人の総数の問題かもしれない。たとえば、エレベーターの「しまる」ボタン。東京では、押してあるのに場合によっては何度も押す人を見かけることも少なくない。私もときに「すみませんすみません」という気持ちで押しまくることがある。自分しか下りないことが分かっているエレベーターは降り際に閉まるボタンを押して出ていくこともある。

「心の余裕」が子育て世代への寛容を生む

もちろんシンガポールにも色々課題はある。シンガポールの公立学校は競争が激しい教育システムで子どもたちも親もストレスを感じている。学力テストでは上位でも、イノベーティブな人材の育成には苦戦している。今後経済成長がどう転じるかもわからない。でも、様々なルールに厳しいこの都市国家ですら、東京ほどのせわしなさがないことに驚いた。

東京では、びっくりするほど皆急いでいて、びっくりするほど不機嫌な人が多い。時間通りに来る交通機関や配達等のサービス。素晴らしいことである反面、それが当たり前になり、少しでも遅れればイライラする。他の人、特に弱い立場の人への寛容度が低い。それはそれだけ、日本人男性が抑圧されてきたことの裏返しなのかもしれない。

ただ、シンガポールに比べて、日本の良さは、四季を感じること、文化があること、様々な地方を持っていること。山ほどある。国全体を見れば、その資源ははるかに豊かで、様々意味でのゆとりがあっていいはずだ。

働き方改革が、生産性の追求でよりせわしなさを生むのではなく、働き盛りの男性を中心とする人々の心に余裕を生みますように。人手不足で、これまでのように迅速なサービスを受けられなくなる現実はすぐそこまで来ている。それを「今まで安価な割に、サービスの水準が高すぎた」ととらえ、時間や周囲に寛容になれる人が増えますように。インフラ整備や政策も必要だが、そうしたことが子育てのしやすさや女性活躍につながるのではないか。

東京大学特任助教

東京大学男女共同参画室特任助教。2007年東京大学教育学部卒、日本経済新聞社。14年、立命館大学大学院先端総合学術研究科で修士号取得、15年4月よりフリージャーナリスト。厚労省「働き方の未来2035懇談会」、経産省「競争戦略としてのダイバーシティ経営の在り方に関する検討会」「雇用関係によらない働き方に関する研究会」委員。著書に『「育休世代」のジレンマ~女性活用はなぜ失敗するのか?』『上司の「いじり」が許せない』『なぜ共働きも専業もしんどいのか~主婦がいないと回らない構造』。キッズラインを巡る報道でPEPジャーナリズム大賞2021特別賞。シンガポール5年滞在後帰国。

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