なぜ信用金庫には顧客の顔が見えるのか

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 信用金庫などの協同組織金融機関においては、顧客の顔の見えていることが銀行に対する差別優位だとされています。では、銀行には顧客の顔は見えないのか、なぜ信用金庫には銀行に見えないものが見えるのか。

相互扶助の理念 

 信用金庫などの協同組織金融機関は、銀行から融資を受けられない人々が設立した相互扶助組織なので、融資の顧客は、同時に、出資者である会員や組合員ですから、貸すものと借りるものが同じ共同体に属していて、貸す側には、借りる側の事業者や生活者の顔の全体が見えているのに対して、銀行の融資は弁済能力という顧客の限られた一側面しか見ないわけで、そこに信用金庫等の固有の差別優位があるとされています。

 つまり、顧客の顔が見えるというのは、表現を変えれば、信用金庫と顧客との間に情報の対称性があることであって、それが差別優位になるのは、融資は、まさに信用の供与であり、信用が成立するためには顧客の属性を正確に知る必要があるからです。要は、信用金庫においては、顧客を信じるに足るだけの総合的な情報を得て融資しているので、融資の安全性が高いということです。

 他方で、銀行の経営が成立するのは、弁済能力という一側面に特化した顧客情報を収集して与信判断することにより、効率性を維持しているからです。しかし、効率性を重視した一面的な評価のもとでは、融資を受けられない事業者や生活者が生じてしまうが故に、そうした銀行から排除されたものの自力救済として、信用金庫が生まれたわけです。つまり、信用金庫の創業の原点は、銀行には見えないものを見て、銀行には融資できない先に融資することにあるのです。

銀行に見えないもの

 銀行に見えないものとは、融資先の進化発展する生きた動態であり、明るい未来への可能性です。つまり、銀行が融資の可否を判断するときは、過去と現在の静的な事実情報だけに基づいていて、しかも、その情報の多くは数値という客観的指標に還元されたものであって、そこには未来へ向けて発展していく顧客の動態は表現されていません。しかも、保守主義の原則により、現状の数値は割り引かれて評価される、即ち、一定の悪化が見込まれているのです。

 例えば、有名大企業に勤めていて年収も高い人は、そのままの状態ならば、現在の年収の安定性が高く評価されるので、簡単に住宅ローンを借りられるのですが、無名の新興企業に転職したとすると、一転して借りるのが難しくなります。それは、銀行は、未来へ向けて年収が増加するという明るい可能性を全く評価しないどころか、逆に、勤め先の経営不安による失職の危険という暗い可能性すら見込むからです。

 同様に、企業経営に変動はつきものですが、例えば、二期連続赤字となり、自己資本が少なくなってくれば、その企業は、簡単には銀行から融資を受けられなくなります。それは、銀行は、業況が将来的に改善していく明るい可能性を評価しないで、逆に、業況が一段と悪化する暗い可能性を重視するからです。

信用金庫が見る顧客の明るい未来

 同じ景色を前にしても、見る人によって、その景色のなかに注意を向けて見るものは異なります。つまり、見えることと見ることは異なるのです。確かに、銀行に見えていないものは、信用金庫にも見えておらず、信用金庫に見えているものは、銀行にも見えているはずですが、信用金庫は、未来の明るい可能性、即ち、銀行が見ようとしないものに敢えて注意を向けて見ようとするだけのことです。

 あるものを注意して見るのは、それが注意を喚起するからで、注意が喚起されるのは、それが何かを想起させるからです。故に、あるものを見るというよりも、内面に想起されたものに意識の注意を向けて、それについて思考をめぐらすというほうが正確です。そして、見られるものの豊かさは、思考の豊かさであり、想起されたものの豊かさなのであって、明るい未来は、その豊かさのなかにあるのです。

 例えば、銀行の与信審査においては、ある企業の過去の財務諸表を見ても、直近二期連続赤字という事実を見るのみで、何も明るいものは想起されないわけですが、信用金庫においては、その企業について、長い取引の歴史に刻まれた諸事実、製造から販売に至る事業活動の活き活きとした姿、社長の人柄など、まさに生きた多様な動態の全体が想起されます。

 そして、想起されたことのなかに、過去においても何度か現在と同様の状況のもとで二期連続赤字に陥ったことがあり、そのたびに経営努力によって業況が回復した事実があれば、銀行には融資できなくとも、信用金庫には融資できる事案になります。実際、企業が現に存続してきたという事実は重いわけで、その事実の重みを体感できれば、その企業が秘めた強さも実感できるのです。

協働するから見える

 信用金庫の本質は協同組織にあり、協同の本質は協働にあるのです。つまり、事業にも生活にも、金融は必需の機能なのですが、信用金庫は、単に金融機能を提供するだけではなく、顧客であり、同時に出資者でもある事業者や生活者と課題を共有し、その解決を金融面から支援するために協働するのです。

 こうして、少なくとも理念的には、信用金庫が顧客と協働するという気概のもとに経営されているのであれば、顧客の明るい未来を見ることは、自分自身の明るい未来を見るのと同じことであって、逆に、自分自身の明るい未来を見るためには、顧客の明るい未来を見なければならないのです。つまり、信用金庫に顧客の顔が見えるというのは、顧客の明るい未来が見えることです。

 そして、それが可能なのは、協働の結果にほかならないのであって、協働するから、共通の経験が積み重ねられ、顧客の生きた動態についての理解が深まり、顧客の状況の小さな変化に対しても注意が喚起されるから、早期に顧客支援に動けて、その適時適切な支援により、顧客の未来が明るくなるわけです。

「貸さぬも親切」

 信用金庫業界の指導者だった小原鐵五郎の名言に、「貸さぬも親切」というのがあります。今でも、信用金庫関係者で、これを知らないものはないでしょう。

 この意味は、銀行のように弁済能力だけを評価するときは融資可能な先でも、その使途によっては融資することが顧客の真の利益に反する場合もあって、そのときは融資を断るべきだというのです。不適当な使途とは、例えば、本業と全く関係のない不動産や株式の投機的取得や、計画性のない事業拡大などであって、逆に、「貸さぬも親切」は、顧客の健全なる成長と発展のために必要にして十分な資金は、必ず貸すべきだということを含意しているのです。

 さて、「貸さぬも親切」という理念の貫徹は、顧客の損失は自分の損失であり、顧客がなすべきでないことは自分もなすべきではなく、逆に顧客がなすべきことは自分もなすべきであるとの原則に常に立脚することですから、顧客との協働そのものであることは論を俟ちません。

理念への回帰

 しかし、信用金庫と銀行との差が小さくなってきたことは否めません。それは、第一に、創業の原点は、資金が不足していた時代における調達に窮した人々の自助にあったわけですが、圧倒的な資金過剰となって久しい今、その意味合いは希薄化しており、第二に、預金取扱金融機関として、信用金庫と銀行は基本的に同じ規制に服しており、その規制の精緻化のなかで、制度的に同質化が避け得なかったからです。

 ところが、近時の金融庁の行政方針は、抜本的に転換されています。資金過剰のもとで、「貸さぬも親切」の理念に反した不要無用な金融機能の提供がなされ、他方では、資金過剰にもかかわらず、効率性重視の経営は必ず金融排除を生むことについて、金融庁は、顧客本位や事業性評価に基づく融資等の名称のもとで、警鐘を鳴らしてきました。要は、銀行にすら信用金庫の理念の徹底を求めているようなものです。

 つまり、原理的に、銀行は信用金庫の理念を受け入れ得ないわけですから、今こそ、創業の理念に回帰することで、信用金庫に明るい未来が開けてくるのです。そして、それは、地域社会に立脚するものとして、地域の未来を開くことでもあります。