仕事をしたくない人ほど生産性が高くなるわけ

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 人を雇う側の企業は自分の勝手な論理で人を採用し、その仕事を評価するわけですが、働く人の側にも各自の勝手な論理があるのですから、両者の勝手な論理は矛盾衝突することが多く、それが生産性を低下させるのです。故に働き方改革が必須になるのですが、働く人の立場で、どのように雇う側の論理を修正すると、矛盾が小さくなるのか。

働き方改革

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 働く人は、様々に異なる人生観をもち、働くことに様々に異なる意義を見出しています。そこで、働く人の視点で考えるときには、各自の多様な生き方と働き方に応じて、好きなように働ける環境が整備されていればいいわけです。

 そして、すべての人が好きなように働き、好きなように働くからこそ仕事への集中が生じ、創意工夫が自然に促されるのならば、生産性が最大化するはずですから、そうした環境の整備は、社会全体としての人的資源の最適配置を実現することになり、人を雇う側の視点においても利益になります。

 こうして、働き方改革というのは、それが政策である限り、各企業の問題ではなく、社会全体の改良でなくてはならないのです。

単一の目標を失った社会

 もちろん、これは実現不能な理想です。しかし、現実から出発しては、現実を変えることはできません。現実を変えるためには、現実に対する批判的視座のもとで、変革の方向性が示されなければなりませんが、その方向性の先にあるものが理想なのですから、理想は、単に方向を示すだけのものとして、最初から達成され得ないことが前提になっています。

 更にいえば、実現可能な目標を定めること自体が意味を失っています。経済的な豊かさという単一の価値観のもとで、その増進を社会共通の単一の目標として成長してきた日本は、目標を達成したところで成熟の極みに達して新たな目標を失い、目標だった豊かさが意味を喪失したときに、個人の多様な価値観を許容する社会への転換が必要になったのですから、もはや、社会全体の目標が語られることはないのです。

働くことの意味

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 人は、人の何であるかを問うとき、職業をもってします。それだけ、社会においては、働くことに特権的な意味が付与されているのです。故に、ピアニストを名乗るためには、ピアノを弾くことで生計を立てなくてはならないのです。

 しかし、ピアノを弾くことに生きがいを見出し、ピアノを弾いている自分こそ本来の自分であると思っている人は、会社員として生計を立てていたとしても、やはりピアニストと呼ばれるべきではないでしょうか。そして、その人は、会社員としての地位に生計を立てること以上の意味を与えないのなら、会社からの人事評価を高めようとも、昇給昇格への意欲をもとうとも思う必要はなく、会社に対する関与を必要最低限にとどめてもいいのです。

 この会社員ピアニストのように、生計を立てるために働くことよりも、家庭における自分、地域社会における自分、趣味に没頭する自分などを優越させる生き方は、むしろ、人間として自然なものです。なにしろ、人は、精神的に生きることで真に生き、他方で生物として生きるためには生活資金が必要なので、それを得るために働くにすぎないわけですから。

天職を得る幸せ

 ピアノを愛し、ピアノに人生を捧げ、しかもピアノを弾くことで生計を立てられるピアニストは幸福です。このように精神的に生きることと働くことが一致する幸福な人は、いわゆる天職を得た人であって、芸術に限らず、実業の世界も含めて、様々な分野において少なからず存在するでしょうが、このような幸福が全ての人に与えられるわけではなく、むしろ、天職を得ることは稀有な僥倖かもしれません。

 しかし、天職を得ることが普通でないにもかかわらず、近代社会の成立以来、天職を得るべく努力することが人間の義務のようにみなされてきました。故に、人は、人の何であるかを問うとき、職業をもってするのですし、その職業が何であれ、会社勤めであれ、それに従事することに誇りと生きがいをもち、職業を通じて経済的にも精神的にも自己を高めることをもって、まともな社会人としての必須の要件とみなすのです。

社会の職業観による抑圧

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 例年、全く同じような装いをした大勢の大学生がオフィス街を埋める光景、あの就職活動解禁の時期に繰り広げられる異様な光景の裏には、何か不気味な力が働いているようです。大学生にとって、会社員になり損なうことは、生計が立たないことよりも、まともな社会人とみなされないこととして、より大きな恐れなのだとしたら、大学生を支配するものは社会の職業観による抑圧です。

 同じ抑圧は、子供を支配し、子供の親を支配しています。なぜ子供は勉強しなければならないのか、それは、いい学校に行くためで、いい学校に行くのは、いい勤め先を得るためです。逆に、芸事やスポーツに励むのなら、多くの場合、その道で生計が立つまで極め得るか、いい学校へ入学する道が開けるか、どちらかの期待があるからでしょう。

 雇う側の企業は、確かに、この社会構造を利用し、いい勤め先としての地位を形成することで、優秀な人材を確保しようとしてきたわけですが、同時に、そこには社会の期待に応えなければならないという義務感や使命感もあるはずですから、同じ抑圧に支配されているのです。

抑圧は不幸を生む

 雇う側の企業は、企業の利益の立場において、働く人への期待行動を職務として定義し、それへの適合性を基準にして、働く人を選別したいわけですが、働く人の立場からいえば、自分固有の生き方の問題としては、そのような基準への自己の適合性をもって企業を選択することはできませんから、働く人にとって、選択が結果的に天職となり、そこに生きがいと働きがいを見出すことになるのは、幸福な偶然として、稀なことだといわざるを得ません。

 故に、多くの働く人にとって、生きがいをもって生きることと、生活資金を得るために働くこととの間に、不幸な分裂が生じ、両者の有機的な連関がなくなるのです。これは雇う側にとっても不幸なことです。なぜなら、そこでは働く人に対して天職におけるような集中、自己研鑽、創意工夫を期待できないからです。そして、生産性が低くなる原因は、まさに、ここにあるわけで、故に働き方改革が必要なのです。

働く人が企業を選ぶ

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 雇う側を主語にして、人を採用するという発想が旧来の抑圧に支配されたものであって、働く側を主語にして、働く場所を選ぶという発想への転換が必要です。例えば、ピアノを愛する学生は、ピアノを愛するという理由によって、勤め先の企業を選択するのか、というふうに問われなくてはならないのです。

 つまり、ある人が上手にピアノ弾くことは、そのこと自体としては、企業にとって何の意味もないことですが、企業がピアノを弾くことについて様々な便宜を供与することは、ピアノを愛し、ピアノを弾き続けたいと願いながら、働かざるを得ない人にとって、企業を選ぶ重要な要素になり得るということです。

 こうした便宜を供与する企業の利益は何かといえば、働く人の側に生産性向上への利益誘因が生じることです。なぜなら、ピアノを軸とした生き方のなかでは、生計を立てるために働くことによって、最小時間で最大成果を生むことが利益だからです。

 いうまでもなく、その前提として、働くことの対価としての報酬は、時間ではなく、成果に基づくように設計されなくてはなりません。これが働き方改革の重要な技術的要素です。

生き方改革、雇い方改革

 働くことによって同時に精神的に豊かさを実感できる人は幸福な少数者であって、働き方改革とは無縁な人々です。働き方改革は、そうでない多数者にとって、働くことの外において、より精神的に豊かに生きるために、より効率的に働くための改革ですから、生き方改革だといってもいいでしょう。

 雇い方改革も必要です。企業経営にとって、真の多様性とは、働く人の生き方の多様性、価値観の多様性を許容することです。人は、働くことで生計を立てるために生きているのではなく、それに優越する多様な価値、趣味の追求、家庭の幸福、社会貢献、学習、政治活動などのために生きています。企業は、人の多様な生き方に対して便宜を供与することをもって、働く人の採用戦略としなければなりません。

 そして、生産性の向上は、雇う側が働く人に求めるものではなく、そのような多様性が許容されるなかで、働く人が自己の幸福の追求のために、自己の利益のために、仕事への集中、自己研鑽、創意工夫を自発的になすことにより、自然と実現されるものなのです。

 もちろん、企業は一つの事業目的のために組織されたものですから、多様に働く人に対して、目的合理的に仕事を分割して配賦する仕組みが必要で、そこに高度な経営技術が要求されることは明らかです。しかし、それは、時間から成果に基づく報酬への転換と並んで、働き方改革の技術的な問題にすぎず、重要なのは、その本質を正しく理解することです。