事業承継が問題になること自体が問題だ

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 超高齢化社会がもたらす多方面にわたる難問のひとつに、経営者の引退に伴う事業承継があって、後継者がいなくて他社への事業譲渡になったり、譲渡先が見つかりにくかったり、廃業するほかなかったりと、多くの困難があるとされています。しかし、冷たく突き放してみれば、事業に価値があれば簡単に承継されるはずであり、承継され得ないのは事業に価値がないからなので、廃業すべきだと考えられます。さて、事業承継が問題になることの深層はどうなっているのか。

事業承継という問題はない

 産業構造は変化し続けており、新たな産業が生まれ、古い産業は淘汰再編されていきます。その激しい変動のなかで、新しい事業者が生まれ、古い事業者は、淘汰再編されるか、自己革新によって変貌していくのです。これは資本主義経済の本質ですから、日本が例外であるはずもなく、超高齢化によって原理が変わるものでもありません。

 そうした変動のなかで、事業者の価値は新たな産業構造の立場から評価されるべきものですから、価値を高めたものは栄え、価値が不変のものは存続し、価値を失ったものは、消滅廃業に向かうか、新しい枠組みのなかで新しい価値を生むものとして、他社に合併買収されていくはずです。これは市場機能の自然な発現であって、そこに特別な問題があるとは考え得ません。

 事業者の創業、合併、買収、事業譲渡、破綻、廃業等の事象は、大きな産業構造変化の動態のなかで現象として生起するもので、事業承継というのは、それらの諸現象のうち、中小の非公開企業や零細な個人事業者に関する事案の総称ですから、やはり、原理的には、そこに特別な問題があるはずはありません。本質は産業構造の変化であり、その変化がもたらす諸現象は本質的変動の必然的帰結にすぎないのです。

日本的な問題のたて方

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 では、現在の日本で、事業承継が重要な問題だとされる理由は何でしょうか。

 日本でも、産業構造の変化に応じて、多数の事業者の創業、合併、買収、事業譲渡、破綻、廃業等の事象が自然に生起していると考えるほかなく、そのなかで中小の非公開企業の合併、買収、事業譲渡等による多数の事業承継が自然になされているはずであって、そこに特別な問題があるとは考え得ません。

 それにもかかわらず、事業承継が重要な問題だとされるのは、経営者の高齢化により承継事案が増加するなかで、自然な市場原理によっては承継され得ない多数の事業が存在していて、それらに廃業の道しかないとしたときには、地域経済にとって、ひいては日本全体の経済にとって、好ましからざる影響を及ぼしかねないからです。

 さて、承継され得ない理由として、事業に全く価値がないということならば、廃業こそが正しい選択ですから、論じる余地もないわけです。そこで、問題は、承継されるべき価値があるにもかかわらず、適切に承継され得ない事業が多数あることであり、しかも、その理由が多様であるのに応じて、多様な解決策を講じなければならないことだと考えられます。

後継者が見つからないわけ

 事業承継においては、後継者不在が問題だとされます。しかし、これも市場原理からすれば、後継者が見つからないのは承継したい人がいないからで、承継したい人がいないのは事業に価値がない証拠ですから、素直に廃業するしかないわけです。故に、論ずべきは、事業に価値があるのに、その価値を知って承継しようと思う人が登場しないのは、なぜなのかということであって、実際、これが事業承継問題の代表例だと思われます。

 さて、どのような事業者にも、多数の仕入れ先や販売先があるのですから、その価値に関する情報は広く流通していると考えるべきです。故に、通常は、市場原理に従って事業承継が自然に起きるのです。よく知られざる優良企業などといますが、それは言葉の遊びで、その意味は、知る人ぞ知る企業であり、業界では著名な企業です。

 従って、事業の価値が知られていないから後継者が現れないと考えることは間違いであって、逆に、事業の価値がよく知られているからこそ、後継者が現れないと考えるべきです。つまり、事業の価値が知られている一方で、そこに内在する危険も知られていて、かつ、その危険を制御できるとは誰も思わないということです。

遅すぎる事業承継の準備

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 代表的な危険は、現在の経営者の強烈な個性です。経営者の個性は、経営者が創造した事業の個性ですが、その個性が差別優位になっている場合、経営者が去った後、事業の競争力が失われてしまう危険性は大きく、しかも、その危険を制御する方法はないのですから、後継者が現れないのは当然です。

 しかし、事業の要素についてみれば、顧客、販路、製造施設、技術、人材等、承継可能なものがありますから、事業全体を承継する人が現れなくとも、事業の要素を承継したいと思う人は多数いるはずです。簡単な例でいえば、料理屋の場合、事業主の板前の料理の腕に依存しているので、その人が去れば常連客も去りますから、事業承継不能ですが、少なくとも店舗は残るわけで、それを承継したいと思う人は多数いるでしょう。

 しかし、多くの経営者は、自分の事業が解体されることを望みません。では、なぜ、経営者として、早期に自分の後継者を見つける努力を開始しなかったのでしょうか。経営者の高齢化に伴って事業承継が大きな問題になってきたということ自体に、大きな問題性があるのではないでしょうか。

 実際、事業の個性が強ければ強いほど、後継者の内部育成が重大な経営課題になるのですから、経営者として、権限委譲を進め、同時に、自分が保有する自社株を段階的に次世代に譲渡していくような早期の自覚的な取り組みが必要になるはずなのです。

 高齢になってから事業承継を検討し始めて、後継者がいないと嘆いても、経営責任上、自業自得だと思われます。そして、その経営責任の延長線上で、自分の事業のうち承継可能なもののみが承継されていく事態を受け入れるほかなくなるのです。

新しい創業者の生き方

 企業は公器であるといわれますが、公器に盛られた事業は社会的なものであって、創業とは、社会に対して価値のある事業を送り出すことであり、事業の成功とは、その価値を社会が認めることです。ならば、事業の価値を社会が認めたところで、事業承継を考えることも経営者にとっての重要な選択肢です。なぜなら、創業によって社会的価値を創造する人と、その価値を別の価値と融合させて成長させる人とは、異なる可能性が大きいからです。

 このようにして早期に事業承継を考える創業者は、他への事業譲渡によって得た資金を用いて、新たな創業を行ったり、他の創業者へ出資したり、事業活動から離れて全く新しいことに挑戦したり、趣味等の事業以外の自己実現に没頭したりしていきます。日本でも、新しい創業と事業承継のあり方、創業者の新しい生き方が始まっています。今でこそ高齢化した古き創業者たちの事業承継が問題になっていますが、同じ問題が繰り返されることはないでしょう。

古い創業者の生き方

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 零細な個人事業主の場合、家計と事業とは峻別されずに不透明に融合してしまうことが多いでしょう。しかし、それでは正しい事業経営などできるはずもなく、そのような事業に承継されるべき価値がないのは自明です。ましてや、中小企業の場合、創業家が所有する同族企業だとしても、一族の財産管理と企業経営とは完全に峻別されていなければなりません。

 財産管理と事業経営を完全分離したとき、財産としての事業価値が見えてきて、経営者は二つの人格に分裂するでしょう。一つは事業の経営者であり、もう一つは事業を財産として所有する投資家です。このとき、投資家としての自分が経営者としての別の自分を叱咤して事業価値の向上に努めさせることは、極めて難しいことですから、現実的には、二つの道しかないでしょう。

 第一は、先ほど述べた新しい創業者の道で、経営者として創業した後、早期に投資家に転身することであり、第二は、これまで問題にしてきた古い創業者の道で、財産管理と事業経営が分離されていないなかで、人生と経営が合体したまま高齢を迎えることですが、これでは、社会から評価される真の事業価値の創造はできないわけで、故に、現実問題として、事業承継が困難になっているのでしょう。

 真の経営者は、顧客や仕入れ先や従業員などで構成する社会から、価値のある事業の経営を信託されたものとして、社会に対して責任を負うものであって、事業は自分の外に客観的に存在するものだと理解しなければならないわけですから、自分の人生と事業経営が合体することはあり得ないのです。

投資家としての生き方

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 事業の所有者としての経営者は、事業譲渡することによって、事業を金融資産に転換して投資家になるわけです。経営者が高齢になるまで事業承継に思い至らず、思い至ったときには事業承継が困難になっているのは、経営者としての自分を卒業できないからで、卒業できないのは卒業後の自分、即ち投資家としての自分を思い描けないからです。思い描けないというよりも、投資家としての自分を思い描きたくないのでしょう。

 そこには、投資家は働かずして所得を得るものだという偏見があるかもしれません。しかし、偏見といえば、経営者として働いているという自覚自体が偏見ではないでしょうか。経営者として働いているかどうかは、主観的な感情ではなく、客観的な社会からの評価に依存することですから、身を粉にして働いているという自覚のもとで、客観的には少しも働けていない経営者は少なくないでしょう。

 同様に、投資家が働いているかどうかは、経営者としての仕事をしていないという外形ではなく、投資活動が創造した社会的価値と、投資収益を使って実現した社会的価値とによって評価されることですから、遊んでいるように見えて、実は働いている投資家は少なくないのです。