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30年前のイラン人はどこへ行った? 戦争の果てに来日 15年前の調査から

南龍太記者
(写真:ロイター/アフロ)

 前回、30年前の1990年ごろに多くのイラン人が集まった東京・上野公園に残されたペルシア語の注意書きの記事を書いた。加えて、当時の様子や背景の分析を試みた2006年の論文がある。

 15年ほど前の拙文ながら、今後外国人の増加が見込まれる日本にあって、過渡期の一時代を切り取った調査として、今日的意味を多少なりとも含んでいると考える。在日外国人がたびたび、そしていまだに在日イラン人が時々ニュースになる昨今、多様化する新たな隣人との向き合い方として、ご参考になれば幸いである。

(以下、筆者「エスニック・ビジネスを通して見る在日イラン人ネットワーク」より抜粋、一部加筆。(※)は文末に注記。文中の制度や固有名詞は2006年当時のもの)

* * * * *

序章

第1節. 問題提起

 日本に国際化という言葉が定着して久しい。(中略)日本においては、1970年末あたりから、来日外国人(※1)の増加の傾向が見え始め、特に80年代後半から来日する外国人が激増した。それ以前にも、太平洋戦争以前から来日していた韓国・朝鮮人の人びとが多数いた。駒井洋の定義に沿って、後者を旧来外国人と呼ぶのに対し、前者を新来外国人と呼ぶ[駒井1999:55]。本論では、この新来外国人の中でも比較的来日時期の遅かったイラン人について論じる。

 イラン人の多くは90年前後、好景気に沸く日本を目指し、主に出稼ぎ目的で続々と来日を果たした。異郷の地からやってくる彼らは新奇な存在として世間の注目を浴びた。連日のように主要都市の駅や公園に集まる彼らは一時、社会問題化したほどで、最も多いときには4万人以上ものイラン人が国内で生活していた。

 現在、当時のようなイラン人が集会する姿はまったく見られない。彼らはどこへ行ったのだろうか。彼らの大多数が非正規滞在者(※2)であり、本国への帰還を余儀なくされたことによる人口減少もあるだろう。しかしながらその一方で、国際結婚(※3)などにより正規に在留資格を取得し、定住を始めるイラン人も確実に増えていた。

 イラン人の来日ピーク時に見られた集会に対する先行研究や報道内容などから、当時の集会はビジネスや情報交換などが行われ、未確立であったネットワークの揺籃の機会であったことなどがうかがい知れる。このような場が失われた今日において、彼らのエスニック・ネットワークはどのような変遷を見てきたのだろうか。そのことを考えるうえで、新たな場として胚胎しつつある在日イラン人によるエスニック・ビジネスに着目した。他のエスニック集団に対し、体系的なネットワークが薄弱と言われる彼らにとり、このビジネスの場が重要な意味を持つのではないかという仮説のもと、調査を通じてエスニック・ネットワークのありようと在日イラン人の置かれている実情を考察したいというのが、本論の意図である。その考察を踏まえ、日本流の多文化共生のあり方を検討していきたい。

 次節ではまず、現在の日本における新来外国人の趨勢を概観していくこととする。

第2節. 新来外国人の概況(1980年-)

 最初に1980年以降の日本における外国人受け入れの変遷を見ていく。

 新来外国人は一般的に、1970年代末から増加が本格化し、80年代後半あたりから急増した。法務省入国管理局の『在留外国人統計』によると、日本の外国人登録者(※4)は、86年末の時点で86万7237人、90年で100万人を超えた。そして2005年ではじめて200万人の大台に乗り、過去最高を更新した(05年末時点で201万1555人)。これは日本の総人口の1.57パーセントに当たり、この20年間でその数は、2倍以上になったことになる(図1)。

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 このような急激な増加の原因は、当時の受け入れ国と送り出し国の状況から読み解ける。すなわち、1980年代後半は、日本にとって空前のバブル景気で、送り出し国の多くは発展途上国であったという構図である(※5)。好景気による労働力不足に見舞われた日本は、途上国にとって魅力的な出稼ぎ国として映った。日本の雇用主の中には違法とは知りつつも、短期滞在など資格外の外国人労働者を雇い入れる者もいた。そうした中で、外国人はいわゆる「3K労働」に従事することもしばしばだった。

 ところが90年代に入り、日本は一転平成不況と呼ばれる長期経済停滞期へと突入した。各企業とも厳しい経営を迫られ、人員削減を余儀なくされた。また行政側も非正規就労者の取り締まりに動いた。まず、90年6月の入管法の改定により、在留資格に「定住者」という項目が追加された。これは主として日系人による単純労働を合法化するために設けられたものとされる。これにより、正規労働者と非正規労働者の区別がより明確となった。

 また改定法には、非正規と知りながら雇用をしている場合は懲罰が科されるといった規定も盛り込まれたため、多くの雇用主が正規労働者を雇う方向へと向かった。正規の労働資格を持たない者たちは、より底辺へと追いやられ、職を転じるたびに労働条件は悪化していった。また、非正規であるがゆえに、医療保険の適用も受けられず、体調を崩したまま、検挙、収容、強制退去といったケースもままあった。

非正規滞在者は入管法改定以後、相次ぐ摘発でその数は漸減傾向にあるが、いまだ約20万人の非正規滞在者が国内にいるとみられている(図2)。彼らとどのように向き合っていくかについては、退去強制一辺倒では限界があるようである。入管側は、非正規滞在が長引けば罰金を増額するというムチをちらつかせ自主的な出頭を促す一方、在留を特別に認める情状酌量の判断基準を少しずつ緩和・明確化するといったアメも用意している。しかしながら、そうした曖昧な態度が、非正規滞在者を取り巻く環境をより複雑化させてもいる。

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 そして現在、日本は少子高齢化社会という新たな局面を迎えている。外国人受け入れをめぐる議論も「開国か鎖国か」や日本人と外国人という二分法ではなく、多様な、望ましい共生のあり方が求められている。

第3節. 本論の構成

 本論の目的は、イラン人たちが外国人をめぐる日本社会の環境の変化にどのように対応し、いかにしてエスニック・ネットワークを構築し保持してきたかを調査するものである。来日して間もない1990年代初頭は、上野公園や代々木公園といった公空間が、情報を共有できるほぼ唯一の場所であったと言っても過言ではない。しかしその後ほどなくして公園から締め出された彼らにとって、その代替となり得る場所はどこであっただろうか。そのことを考えるうえで、エスニシティが育まれる結節点としてのエスニック・ビジネスに着目した。特にイラン人の多く住む東京圏を中心に、ビジネスの展開を見ていくこととする。

 すなわち、本論ではまず、イラン人がどういった経緯で来日したのかを先行研究や統計などから分析することから始める。第1章では、在日イラン人に関する概況を俯瞰し、以下、第2章でネットワークが未構築であったイラン人たちによる集会の果たした役割とその意義、第3章で定住化の中でネットワークが胚胎する過程、そして第4章でネットワークの結節点としてのエスニック・ビジネスに携わるイラン人へのインタビュー調査と考察を、順に論じていく。なお在日イラン人の数には、非正規滞在者など、統計上、把捉しきれない部分があり、サンプリングも困難であると判断した。そのため、第4章の調査においては、質的調査を目的としたライフ・ヒストリー形式のインタビューを行うものとする。調査方法などは、第4章で詳述する。

第1章 在日イラン人の趨勢

第1節. 人口動態

1.全国統計

 序章では日本が好景気の1980年代以降、多くの新来外国人が労働者として移入してきた過程を見てきた。イラン人はその中でも比較的遅く1990年前後にかけて、その移入の増加が顕著であった。図3はその推移を示したものである。

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 ここで示したグラフは、外国人登録を行ったイラン人と、非正規滞在のイラン人の合計である(※6)。1990年ごろから急激な人口移入が始まり、92年に早くもピークに達し、その後、現在まで漸減し続けている。増加が急激であったことに比べて、減少が緩やかであるのは、大量の来日者が国内に留まり続けてきたことを示している。グラフから分かるように、その大部分は非正規滞在者に占められていた。また、登録者数に関して、1991年から2000年までの間、その半数以上が「観光」を主とした短期滞在の資格で来日するイラン人であったことも付記しておかねばならない。この短期滞在という資格が、非正規滞在の温床であったこともまた事実だからである。つまり来日イラン人総数のうち、かなりの部分が非正規滞在者に占められていた。下の図3-1は、イラン人の非正規滞在者の推移を抽出したグラフである。

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 非正規滞在者の直面する現実はさまざまで、もともと出稼ぎ目的で来日し、ある程度の稼ぎを得たと感じた者は時宜を得て、自ら帰国した。またある者たちは退去強制令により本国への強制送還を余儀なくされた。また、日本人との結婚を通じて合法的地位を得た者も少なからずいる。1992年のピーク時には4万人いたと言われる非正規滞在のイラン人も、2002年以降は公式な統計上、「若干名」という枠で、その存在は無化されつつある。05年の被強制送還者は620人であり、02年以降、毎年その程度の減少があったことを考えると、現在も1000人前後の非正規滞在者がいるものと推測される。在留特別許可を求めて裁判や署名活動を行うなど、日本の入管政策に一石を投じる存在として、いまなお社会の注目を集めていることも忘れてはならない。

 そうした多くの非正規滞在のイラン人がさまざまな場面で選択を行った結果、総数が減少する一方で、近年、わずかながら定住者の増加という新しい動きがある(図4)。この「定住者」という表現であるが、例えば、一定期間以上の滞日外国人はみな定住者と見なすべきだという見方や、正規、非正規で区別するべきだといった議論がある。非正規滞在者は寄る辺ない存在として、明日退去強制令が言い渡される可能性も否定できないという点で極めて不安定である。そのため、本論における定住者とは、在留統計上の「永住者」、「日本人の配偶者等」、「永住者の配偶者等」、「定住者」、および「家族滞在」、「その他(特別永住者など)」として正式に認められている者を指すものと定義した。実際上は非正規滞在者であっても、家族と暮らし、その地域社会に生活基盤を築いている者もある。しかし、昨年末にそうした家族が入管との長い裁判闘争の末、最高裁判決でやはり退去強制令が最終的に下された。そうした事例からも、本論でいう定住者とは、正規資格を有し、自らの意志で在日可能な者であるべきとの考えに立っている。

 その定住者のうち、最も多い在留資格は、「日本人の配偶者等」であった。図4は、その定住者の内訳を示したものである。新規入国者が減り、非正規滞在者も漸減する中で、定住者が増加傾向にあるのは、非正規滞在のイラン人、とりわけ男性が、日本人と婚姻関係を結び、正規の在留資格を取得していったことが背景にある。そうしたイラン人の中には、日本でエスニック・ビジネスを成功させている者も見られるが、離婚に終着してしまったカップルも多くいる。

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図4 在日イラン人定住者の内訳(1991-2003年)

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 なお、そうした結婚事情の背景には、図5が示すとおり、当時の来日イラン人の多くは30歳以下の男性であったという事実がある。

 そうした経緯を経て、来日イラン人は一時の4万人超から、2006年現在は登録者5227名に若干名とされる非正規滞在者を加えた程度にまで減少した。それでも、1990年以前と比べると、登録者が5倍以上にも増加したこととなる。入国や滞在の規制が厳しくなる環境の変化に伴い、イラン人登録者の内実も変化したことがうかがえる。

 そして、移入が始まってからまもなく20年が経とうとする今、在日イラン人の居住環境が集中から分散へと変化しつつある。次に、イラン人の居住分布を検証していく。

2. 東京都と主要府県の統計

 まずは、代表的な都府県のイラン人の統計を見ていく。表2、各自治体に外国人登録を行ったイラン人の数を示すものである。

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 大阪府や愛知県といった日本の第二、第三都市より、むしろ関東一円に集中していることが分かる。在日イラン人のうち、2005年末時点で、関東には実に77パーセントのイラン人人口が集中している。群馬県や茨城県のイラン人人口が、旧来外国人や日系人が多く住む愛知県や大阪府のそれを上回っていることは、注目に値する(※7)。中でも東京在住者は群を抜いて多く、4分の1を占めている。

 このことは、必然的に、関東圏におけるイラン人同士のネットワークがより強固であるという推察を可能にする。敷衍すれば、レストランや雑貨店といったエスニック・ビジネスの展開の歴史を見るうえで、東京を中心とした関東一円が重要な地域であることを示している。特に、1991年から95年にかけての関東圏のイラン人の増加は著しい。92年に査証免除協定が停止されたにもかかわらず、人口が増加している背景には、前項で先述したとおり、「観光」を中心とした短期滞在の査証で、来日するイラン人が後を絶たなかったということを示している。

 また表から、県や地域によって、変遷の傾向が異なることが分かる。東京都におけるイラン人数はいまなお突出して多いが、全体の3分の1であった頃に比べると少ない。それにはやはり、92年の査証免除協定の停止措置と相次ぐ大量検挙と退去強制の影響が考えられる。東京都と東京以外の関東圏のイラン人の数が逼迫してきた背景には、取り締まりを逃れるため、イラン人が都心から郊外へと「大移動」[週刊朝日1993.6.4:26-29]したことなどによる。外国人登録をしているのに取り締まりの恐れがあるというのは、短期滞在による来日で就労するといった、非正規滞在者がいたからに他ならない。

 しかしながら、注目すべきは、近年の傾向として東京を含む関東圏のイラン人人口が減少している一方で、大阪、京都、兵庫、愛知では、横ばい、あるいはわずかながら増加していることである(図6)。

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 こうした現象は大都市に限らず、東北や九州の地方都市においても見られる。このことはおそらく、イラン人の多くが、入管などの警備が厳しい大都市を忌避し、地方に潜在化したことの結実であろう。また、近年は「短期滞在」による外国人登録を行うイラン人が減ってきているため、こうした地方に見られる登録者の増加傾向は、そのまま定住者の地方分散化傾向と見ることできる。

 つまり、イラン人のたどった国内ルートは、移入開始当時にまず東京都心へ、それから東京郊外、そして全国の大都市、各地方都市へと分散し、潜在化しているということである。

 そして繰り返しになるが、これら登録者の他に、非正規滞在者数が相当数いて、今も全国各地に潜在化している。

第2節. 来日イラン人急増の諸因

 ここまで見てきたように、イラン人は1990年前後に大挙して来日した。またその多くが非正規滞在者であったため、ピーク時からその数は相当減少した。このような経緯をたどった背景を、プッシュ・プル理論(※8)などを用いて、イラン側の事情、日本側の事情に分けて、見ていくものとする。

1.イランの事情(プッシュ要因)

 イラン人が日本に大挙してやってきた1990年前後というのは、イランが激動の時代を駆け抜けた一つの区切りのときであった。すなわち、イランは1979年イラン・イスラーム革命、80年から88年まで続くイラン・イラク戦争、そしてその終結を待つかのように 89年、革命の指導者ムーサヴィー・ホメイニーが死去した。

 まず、革命による経済的打撃は凄まじいものがあった。インフレ率は50パーセントを超え、町には失業者が溢れていたという[鳥井順1990:48-9]。そして、イラクとの長期にわたる戦争の末の敗戦とあって、国家財政は火の車であった。主要産業である石油関連収入も戦争による石油施設の破壊と86年の石油価格の下落により、国家は疲弊しきっていた[宮田2002:222]。そのような状況で、円やドルなどを国内に持ち込めば、莫大なリヤールに換金できるとあって、国内の出稼ぎ熱が高まったことは必然であった。来日のピークの92年には、日本行きの航空券が抽選制となったほどである[町村1999:198]。

 また、社会状況として、当時の国民の人口の7割、つまりおよそ4000万人が30歳以下の若者で構成されていた。海外を目指した多くの若者が、厳格な宗教的戒律への帰依と自由への希求との間で揺れ動いていたのであろうことも重要なファクターとして見逃せない。

 政治的にも不安定な状況であった。指導者の死去に伴い、国家の命運を誰に託すかをめぐって、紛糾した。イラクとの国家賠償に関しても、米ソを含めた国家やイデオロギーの間で利害が対立し、一筋縄ではいかなかった。「むなしい戦争」[鳥井1990:596]と呼ばれ、指導部に対する不満がないわけはなかった。何のための戦争だったのか、そもそもイスラーム革命が正しかったのかと、その意義を問い直す機運が高まっていた。イスラーム国家体制に疑問を持つ者が現れるのも無理からぬことであった。しかし表立って政府を批判できない情勢であっただけに、国内に漂う遣る方ない不満は、国外の自由への憧憬と変わっていったのである。

 立て続けに革命から戦争へとひた走ったイランの国家的信用は揺らぎ、欧米や隣国との関係が悪化した。イランはいわば国際的孤立状態にあり、各国との国交の回復が急務であった。そのような折、先進国の中で唯一、査証なしで渡航できる国が日本であった。同じアジアの国という紐帯を恃んで、多くのイラン人が日本を目指してきたのであった。

 ただし、革命に際し、王政時代を謳歌したイラン人の多くは教養あるエリート層であり、彼らの国外脱出先は日本よりむしろ、欧米であったことは付言しておかねばならない。つまり、日本ばかりでなく、欧米先進国もまた、多くのイラン人を内包しているという事実が、厳然としてある。なお、現在においても、イラン研究の先端は欧米が中心であり、イラン国内においては、欧米へ行っていた者たちは羨望や尊敬の目で見られ、日本から帰国した者たちは3Kの肉体労働をしてきたとして蔑まれることが、通念としてあるという(※9)。さらに言うと、イラン国内には当時、航空券を購入する資金すら作れない層も多かったため、来日した者たちのステータスはもともとそれほど低いわけではなかった。

2. 日本の事情(プル要因)

 まず、経済的な要因として、日本では1980年代後半から続く好景気を受けて労働力が不足したことが挙げられる。当時、単純労働であっても、イラン人の平均月収の10倍近くの月収が見込まれたことは、経済の見通しが立たないイランにとっては大いに魅力的であった[宮田2002:222]。

 さらに、1980年代後半に、日本のドラマ『おしん』がイラン国内で放映され、人気を博したことも、日本への好感情を醸成する一因であったことは着目すべき点である。その映像から読み取れる日本に情念を抱き、また同じアジアであるという親近感も手伝って、日本は好ましい国というイメージが醸成されたものと思われる。しかし実際には、あくまでドラマという作り上げられた日本像と現実の日本との間にあるギャップに戸惑う者も多数いた。

 また、日本・イラン関係は外務省の見解としても「良好」であり、1974年から渡航の際には査証不要の相互査証免除協定を結んでいたことも大量移入の背景にあった。

 まとめると以下のようになる(表3)。

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 なおプッシュ・プル理論は、現状にそぐわない面も表出してきている(※10)。しかしながら、90年初頭のイラン人の移入に関しては、出稼ぎ熱の高まりと日本の好景気が密接に関連していることが指摘されている。ゆえに、同理論が当てはまる事例と言えよう。ただ、今後定住者の増加や家族の呼び寄せなども含めた将来的なことを考える際には、前述した「移民ストック」といった理論の応用も必要になるであろう。

第3節. 潮流による時期区分

 本節では、在日イラン人の統計に見られる特徴に沿って、二つの時代潮流に大別する。それぞれを「移入期」、「選択期」に区分し、それに基づき以下の章の構成を行う。

1.移入期

 主に出稼ぎを目的とするイラン人が移入し始めた頃からそのピークまでを移入期として区切ることとする。具体的には1989年から92年のピーク時までの時期を指し、来日するイラン人の急増が特徴である(図7-1)。

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 この時期に見られた象徴的な出来事として、イラン人たちの「い集」(※11)が挙げられる。その「い集」により、幸か不幸かイラン人たちは、一気にその存在を日本社会に知らしめた。こうしたイラン人の可視化現象の発端である集会が、エスニック・ネットワークという切り口で語られる際、どのように機能したかを第2章で詳しく見ていくこととする。

2. 選択期

 92年以降、現在に至るまで在日イラン人の数は減じ続けている(図7-2)。この15年ほどの間に、イラン人を取り巻く環境は大きく変わった。総数の減少を日本の入管行政の成果であると見るのは早計である。すなわち、イラン人の一人ひとりが当面する現実に際し、そのときどきに選択を行った結実と見るほうが正しい。イランへ帰還する者と日本に留まる者、日本の制度と自らのアイデンティティの間で揺れ動きながらイラン人たちは自分の将来を決めていくこととなる。そうした考えのもと、この期間を選択期として区切ることとする。

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 移入期のイラン人の多くが短期滞在の在留資格による滞日であったため、1991年以降、滞在期限を過ぎたイラン人たちが問題となった。イランと結ばれていた査証免除協定の一時停止措置と数次にわたる入管法改定計画により、国内の非正規滞在のイラン人数は数を減らした。その一方で、定住者の数が、わずかではあるが増加を続けている(図7-2-1)。

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 そして現在、非正規滞在者数と定住者数が逆転するに至った。

 定住者増の背景には、結婚などによる日本国籍の取得などがあった。しかし、一口に定住と言ってもそのあり方は多様化している。それぞれの選択がなされた背景を多角的に捉え、イラン人の定住化とネットワークの広がりを第3章で見ていくこととする。

(後略)

※注記:

1、「来日」とは、来意や滞在資格・期間の別なく、「日本にやって来る(こと)」を意味し、一方の「在日」とは、「日本に在住している(こと)」を示し、正規資格を持たない在住は含意しないこととする。その中間的位置付けとして「滞日」を、正規滞在である「在日」に加え「査証免除国からの短期での来日や、在留資格上の「短期滞在」で来日したものの、何らかの事由により、日本に滞在し続けること」と定義する。

2、一般的には「不法滞在者」と呼ばれる。しかし、「不法」という位置付けの抑圧性や搾取性は強いとして、本論では「非正規」という語を用いた。

3、国際結婚という呼称はかなり定着しているが、このような名称は日本的ということで「混合婚」と呼称する研究者もある。

4、外国人登録者の在留資格については、巻末資料1を参照。

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5、しかしながら、1997年のアジア経済危機にもかかわらず、日本国内で外国人労働者を直接、間接に雇っている事業所は増加したため、外国人労働者を「好況期=増大、不況期=縮小」という景気動向のみで人口移動を判断するには、一考が必要である[佐藤1998:31]。そこで現在は、後述の「プッシュ・プル理論」に加え、「移民ストック」や「移民ネットワーク」に注目する必要がある[下平好博1997:43]

6、なお、『在留外国人統計』は、各自治体で行なわれる外国人登録をもとに算定された数値であり、中には非正規滞在でありながら、外国人登録も行なっている者(未取得者)もいるため、一部、この統計数と非正規滞在者数が重複する。その数はたとえば、92年末現在で53人、02年末現在で89人であった。

7、こうした傾向は、同じくイスラーム圏出身のバングラデシュ人やパキスタン人などにも顕著である。

8、プッシュ・プル理論は、アメリカの景気循環と入国する移民の規模の関係からS.クズネッツとE.ルビンが導き出した。さらに研究は進み、移民送り出し国の景気循環や人口圧力も見逃せないとして、プッシュ・プル理論が提唱されるようになった[下平1997:42-3]。

9、アメリカ在住経験を持つ東京外国語大学のイラン人教員との話し合いによる。他、[岡田1998:144]参照。

10、脚注5に同じ。

11、この「い集」という用語については、次章で説明を加える。

記者

執筆テーマはAI・ICT、5G-6G(7G &-)、移民・外国人、エネルギー。 未来を探究する学問"未来学"(Futures Studies)の国際NGO世界未来学連盟(WFSF)日本支部創設、現在電気通信大学大学院情報理工学研究科で2050年以降の世界について研究。東京外国語大学ペルシア語学科卒、元共同通信記者。 主著『生成AIの常識』(ソシム)、今秋刊行予定『未来学入門(仮)』、『エネルギー業界大研究』、『電子部品業界大研究』、『AI・5G・IC業界大研究』(産学社)、訳書『Futures Thinking Playbook』。新潟出身。ryuta373rm[at]yahoo.co.jp

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