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カリスマFRB議長だったボルカー氏

久保田博幸金融アナリスト
(写真:ロイター/アフロ)

 1979年から8年間にわたって米連邦準備理事会(FRB)議長を務めたポール・ボルカー氏が12月8日に亡くなった。

 1979年8月にFRB議長に就任したポール・ボルカー氏は、同年秋に臨時のFOMCを開催し、金融政策の操作目標を従来のFFレートから銀行準備に変更し、マネー・サプライの安定化を目標とした。第二次オイル・ショックによるインフレの強まりに対処するため、インフレ抑制を最優先課題とした貨幣供給量を引き締める高金利政策を実施した。

 このマネー・サプライ政策はマネーをコントロールするために、FFレートの大幅な変動を容認したことにより、FFレートは結果的に一時22%にまで上昇した。急激な金融引き締めによる金利の高騰により中小金融機関の多くが倒産に追い込まれ、失業率が大幅に悪化したが、高いインフレ率は収まりを見せ、一時リセッションに陥った景気もその後、急回復したのである。これはボルカー・ショックと呼ばれる金融引き締め政策であった。

 そのボルカー議長の任期が1987年までであった。私が債券ディーラーとなったのが1986年10月であり、当時のFRB議長がボルカー氏であった。このためか、強烈な印象を持っていた。実際にボルカー氏はカリスマ性を持っており、それが後任のグリーンスパン氏に引き継がれた。グリーンスパンFRB議長に対する評価は、同議長の退任後に分かれたものの、中央銀行のトップとして、私がまず思い浮かべるのはボルカー氏とグリーンスパン氏であった。

 ボルカー氏はFRB議長退任後も財務省、さらには投資銀行の経営トップを務めるなど精力的に活動を続けていた。そして、2008年のリーマン・ショック後には、当時のオバマ大統領に請われて、金融システムの立て直しを担う経済再生諮問会議の議長に就任した。金融機関の高リスク投資を制限する、いわゆる「ボルカー・ルール」を提案したのである。

 ちなみにFRB議長は米国大統領に次ぐ権力者とされているが、そもそもFRBが独立性を保持したのはそれほど昔ではない。

 1951年に就任したマーチン議長は強い指導力を発揮し、ホワイトハウスからの圧力に屈せずにFRBの独立性を守り抜いたとされる。強い影響力を保持したボルカー議長時代も、レーガン大統領の息の掛かった理事が送りこまれ反乱が起きかけたケースもあったのである。

 政府がFRBに対して圧力を掛けないようにさせたのはクリントン時代のルービン財務長官の影響が大きかったとされている。つまりグリーンスパン議長当時に独立色を強めたともいえるのである。

金融アナリスト

フリーの金融アナリスト。1996年に債券市場のホームページの草分けとなった「債券ディーリングルーム」を開設。幸田真音さんのベストセラー小説『日本国債』の登場人物のモデルともなった。日本国債や日銀の金融政策の動向分析などが専門。主な著書として「日本国債先物入門」パンローリング 、「債券の基本とカラクリがよーくわかる本」秀和システム、「債券と国債のしくみがわかる本」技術評論社など多数。

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