銀行の起源は両替商、今は国債に両替中
今週は9月3日、4日に日銀の金融政策決定会合、やはり3日、4日にイングランド銀行の金融政策委員会(MPC)、4日にECB政策委員会の開催が予定されている。特に4日のECB政策理事会の行方が注目され、追加緩和観測も出ている。このため、ユーロ圏の国債は買われ、ドイツやフランス、ベルギー、オランダ、さらにはアイルランド、ポルトガル、スペイン、イタリアの10年債利回りは過去最低を更新した。
このように中央銀行の動向が市場に大きな影響を与えているが、その中央銀行は銀行の銀行という役割を担っている。さらにここにきて欧州の国債を買っているのも銀行と言われている。大きな金融ショックの影響で銀行が国債を買わざるを得なくなり、デフレも進行するというのは我が国もいつか来た道でもあった。そもそも銀行とは何か。今回はその起源を世界史と日本史から探ってみたい。
英語の「Bank」の語源は、欧州圏の貨幣供給が増加し交易が活発化する中、当時の世界の貿易、文化の中心地であった北イタリアにあったとされる。この地の両替商が両替のために使用したイタリア語「BANCO」(長机、記帳台)に由来するとされている。
ローマ・カトリック教会と連携した北イタリア商人は絹や香辛料貿易を活発に行っていた。十字軍に財政的な支援を行なった見返りに、十字軍の支配下に組み込まれた地中海東部全域における特権を得ていたのである。この遠隔地間の交易のための開発されたのが「為替手形」であった。このようにあらたな信用供与手法が構築され、12世紀から14世紀にかけての北イタリアに「銀行の起源」生まれた。
12世紀のジェノバにはバンゲリウスという言葉が両替商を意味し、この両替商は預金を受け入れ、地元の事業主に貸付を行なっていた。また、13世紀のベネチアでは、バンコ・ディ・スクリッタと呼ばれる直訳すれば「書く銀行」、つまり帳簿上で決済を行なう振替銀行も誕生していた。
為替手形の開発などによって銀行業を介在とした財の生産、そして交易によって中世の西欧経済が発達した。ヨーロッパ各地の物産が交換され、また国内外の負債が決済される場でもあった国際定期市が、交易商人兼銀行家が特に活躍する場になった。そしてイタリア人は商人から銀行家へと転職し、その代中にはルネサンス期を代表する銀行家・政治家となったメディチ家があったのである。
江戸時代の三貨制度により金・銀・銭という3種類の貨幣が支払手段として利用され、両替商はこの金銀銭貨の交換ニーズを背景として登場した。両替とは「両」つまり主に東日本で使われた計数貨幣である「金」を、西日本で使われていた秤量貨幣である「銀」、もしくは小額の計数貨幣である「銭」と替えるという言葉からきている。
さらに大坂の銀と江戸の金の交換で「相場」が生じ、時期などにより相場が変化する変動相場となっていたことで、手数料を取って両替をするという仕事が生まれた。これが鴻池や三井、住友を代表とする両替商である。
両替のためには基準になる相場を決めなければならず、両替屋の大手が集まりその日の経済動向を読みながら相場を立てていた。この相場は大きな資金を動かす政府である幕府にも報告された。
天下の台所と呼ばれた大坂では、全国各地の諸産物が集まり売買されていた。取引の多くは通帳などに基づき信用で売買された後に、商品ごとに定められた期日に代金が支払われた。この決済手段に使われたのが、銀目手形と呼ばれた手形である。このように大坂の商人は、可能な限り現金銀の取り交わしを避け、現金銀を両替商に預け入れ、手形によって決済するといった慣習が出来上がる。
両替商はこの銀目手形(決済手段として利用された手形)の引き受け・決済や資金融通を通じ、大坂で発展した。さらに両替商は業務を広げ、商人や大名、そして幕府などを取引相手に、預金の受け入れ、手形の発行や決済、加えて、貸し付けや為替取引など各種の金融業務を広く営むようになる。このように両替商は現在の銀行業務に近い金融機関としての役割を担っていた。特に手形の決済制度などは、同時期の欧州など諸外国の金融システムに比べても、かなり発達したものとなっていた。この信用制度の確立により、さらに大坂での商業活動が活発化したのである。
このように現在の銀行の起源は洋の東西を問わず両替商にある。そして現在の両替商は貸出等も行っているが、手元の資金の多くを国債という金融商品に交換している。さらに銀行の銀行である中央銀行も日銀を筆頭に国債を大量に購入している。国債は安全資産とされる金融商品ではあるが、ひとつの金融商品が銀行のなかに大きな位置を占めている状況は何を意味し、そこにはどのようなリスクが関わっているのか。あらためて考えてみる必要もありそうである。