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「カネがないなら入院させない」…北朝鮮、医療崩壊の悲惨な現実

高英起デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト
金正恩氏

北朝鮮の医療環境は劣悪だ。当局が運営する病院は一応は診療はするものの、薬品など具体的な治療に関しては自己負担になる。かつては優遇措置を受けていた人でさえもカネがなければ追い返されるという。

ヤミの中絶手術も

劣悪な医療環境を見限った北朝鮮の医師たちは、国営病院を辞めて自分で診療所を開く。厳密にいえば「ヤミ医療」になるわけだが、一部の高級幹部を除いて多くの当局者もヤミ医者に頼らざるをえない。

「ヤミの中絶手術」というものも存在する。実は、今の北朝鮮経済を支えるのは女性たちだ。彼女たちは生きるために働かなければならず、それゆえ妊娠出産を避ける傾向にある。そこで、もし妊娠してしまったら、ヤミの産婦人科医を自宅に招いて堕胎手術を行うというのだ。医大生たちは夏休みに入ると、学費稼ぎのためバイト感覚で「ヤミの堕胎手術」に手を染めるという。

(参考記事:北朝鮮の大学生は「妊娠中絶ビジネス」も…若者は思想よりカネ

麻酔無しの手術も

北朝鮮には栄誉軍人と呼ばれる人たちがいる。彼らは、実戦や訓練で負傷したり、発電所や大規模アパートなどの建設現場に動員されて事故に遭ったりして、障がいをを抱えることになった元軍人たちだ。国家事業での負傷ゆえに様々な優遇措置を受けていた。

清津(チョンジン)市に住むある栄誉軍人は最近、、咸鏡北道(ハムギョンブクト)鏡城(キョンソン)郡の下温堡(ハオンボ)労働者区にある金正淑(キム・ジョンスク)療養所を訪れて入院させてほしいと頼んだ。彼は朝鮮戦争中、自陣に投げ込まれた敵の手榴弾に覆いかぶさって戦友の命を守ったが故に負傷。障がいを抱えて生きてきた。

植民地時代から温泉が多い地帯として知られている鏡城郡にある金正淑療養所は、1946年5月にオープンした施設だ。金日成主席の妻であり、正恩氏の祖母の名前が付けられているだけに、70ヘクタールという広大な敷地に療養施設や宿泊施設などを揃えた大規模な総合レジャー施設である。

北朝鮮の平壌放送は、この施設を「労働者の健康のための頼りがいのある療養施設」とし、「鉱泉治療病棟をはじめ、温泉水を使った治療室、砂風呂室、水マッサージを行う水中牽引治療室、胃腸洗浄室、吸入治療室などが備えられている」としている。しかし、現実は大きく異なるようだ。

栄誉軍人の「入院させてくれ」という頼みを療養所はむげに断った。理由はカネだ。療養所の職員は彼に入院費として30万北朝鮮ウォン(約3900円)を要求した。コメ60キロが買える大金だ。彼がそんなカネは払えないと告げたところ、職員にこんな暴言を吐かれたという。

「あなたのようなかわいそうな人が1人、2人しかいないとでも思っているのか?」

「栄誉軍人だからと言って、何でもタダになると思ったら大間違いだ」

かつては国家から優遇されていた栄誉軍人も、90年代に北朝鮮を襲った大飢饉を通じて、厄介者と見なされはじめ、社会的に疎外されている。こうした背景から、一部の栄誉軍人は半グレ化し、松葉杖組と称され市場などで傍若無人な振る舞いをしているという。

(参考記事:北朝鮮の半グレ集団「松葉杖組」とは?

金正日氏は2009年、「人民の文化休養地の運営をうまくすることについて」という方針を下しているが、このエピソードは、正日氏の方針がまったく実行に移されていない現実を物語っている。拝金主義の前では、最高指導者の方針ですら無視されるのだ。そのため、金正淑療養所の利用者はトンジュ(金主)と呼ばれる新興富裕層や幹部に限られるという。

北朝鮮の医療環境の劣化を窺い知るレポートもある。北朝鮮と国交のある英国外務省が一昨年7月に公開した「北朝鮮の医療施設と医師のリスト」は、北朝鮮の医療施設が劣悪で、衛生水準は基準以下だと指摘。病院には麻酔薬がない場合がしばしばあるため、北朝鮮での手術はできる限り避けることや、即時帰国するように勧告している。

実際、麻酔なしで手術を受けたことのある脱北者は、「メスを入れたお腹から伝わってくる痛みがどれだけひどいか。全身がぶるぶると震え、自分の血の匂いに吐き気がした」などと、その壮絶な体験について語っている。

(参考記事:【体験談】仮病の腹痛を麻酔なしで切開手術…北朝鮮の医療施設

医療崩壊という現実があるものの、北朝鮮の現場の医師たちは献身的に診療に携わってきたことは間違いないが、それも限界に来ているようだ。

ある脱北者は、90年代の大飢饉の時に、最も多く餓死した職種が医師や教師だったと証言する。彼らは国家公務員ゆえに配給に頼らざるを得ない。それゆえに、大飢饉によって配給システムが崩壊した影響をもろに受けざるをえなかった。

そうした過去の苦い経験を持つだけに、医師達も生き残るためには、拝金主義がはびこる現実を受け入れざるをえないのかもしれない。

デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト

北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。関西大学経済学部卒業。98年から99年まで中国吉林省延辺大学に留学し、北朝鮮難民「脱北者」の現状や、北朝鮮内部情報を発信するが、北朝鮮当局の逆鱗に触れ、二度の指名手配を受ける。雑誌、週刊誌への執筆、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に『コチェビよ、脱北の河を渡れ―中朝国境滞在記―』(新潮社)『金正恩核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』(宝島社)『北朝鮮ポップスの世界』(共著)(花伝社)など。YouTube「高英起チャンネル」でも独自情報を発信中。

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