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【イラク戦争と英国】戦争に至る政治過程を検証したチルコット委員会までの長い道のり

小林恭子ジャーナリスト
イラク戦争調査の公聴会近くで抗議デモを行う人々(写真:ロイター/アフロ)

(ウェブサイト「論座」が7月末で閉鎖されることになり、筆者の寄稿記事を補足の上、転載しています。) 

 今年3月20日、米国と英国を中心とする多国籍軍がイラクに武力行使をして始まったイラク戦争開戦から20年を迎えた。

 イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を開発しているという主張の下、国連安全保理事会の決議を得ずに始まった戦争は国連の限界を見せつけた。昨年2月、ロシアによるウクライナ侵攻にも影を落とす。

イラク戦争:2003年、米英を中心とする多国籍軍とイラクとの間で行なわれた戦争。イラクのサダム=フセイン政権が大量破壊兵器を開発している疑惑をもたれ,その破棄を求めた米国と対立した。米英がイラクへの武力行使を主張する一方で、ドイツ、フランス、ロシア、中国などが慎重な姿勢を見せた。国連の決議がないまま、2003年3月20日,多国籍軍が首都バグダッドを爆撃。同年4月、フセイン政権が崩壊する。2006年、イラク人による新たな政府が発足した。2008年、オバマ米大統領が戦争終結を宣言し,2011年末に駐留米軍の撤退を完了した。イラクには大量破壊兵器がなかったことが判明した。

(参考:NHK 「イラク戦争から きょうで20年 その後の国際情勢に大きな影響」、2023年3月20日、学研「イラク戦争」)

 米国と行動を共にした英国では、当時の政府(ブレア政権)がイラクの脅威を誇張した・嘘をついたのではないかという疑念が付いて回った。

 開戦までの経緯を調査する委員会がいくつか設置され、2016年夏、最後の委員会(「イラク調査委員会」、通称「チルコット委員会」)の報告書が出ることになった。260万語で書かれた、膨大な書類となる。

国民にとってどうしても忘れられない戦争

 イラク戦争の開戦時のことを覚えている人は、今、どれぐらいいるだろう。

 シリアとイラクを根城にするイスラム過激集団「イスラム国」(IS)が生まれる前のイラク、サダム・フセイン大統領が統治していた時代のイラクはずい分と昔のようにも思える。

 しかし、英国民にとってはどうしても忘れられない戦争だ。100万人単位の反戦デモが発生した開戦前夜から現在に至るまで、その節々の時に何が起きたのかが鮮明に記憶に残る。

 なぜ忘れられないのか?

 それはジャーナリスト、ピーター・オボーンがかつて言ったように「エスタブリッシュメント(社会の支配者層)への信頼感がガラガラと崩れた」戦争だったからだ。

 戦争の全貌がようやく明らかになるチルコット委員会の報告書を、開戦当時の政権関係者は恐れを抱きながら待ち、戦死した179人の英兵の遺族を含む国民は「今度こそ、真実が解明される」と注目している。

 これまでの委員会の経緯を追ってみる。

世論が真っ二つに割れる中、空爆を開始

 開戦前、ブレア英首相(当時)は、ブッシュ米大統領(当時)とともに「イラクは大量破壊兵器を持っている」、「フセイン大統領による世界的な脅威がある」などを理由としてイラク侵攻を主張した。ブッシュ政権と「ともに戦う」姿勢を示した。

 この時、多くの知識人が「新たな国連決議がなければ、武力攻撃は違法ではないか」、「大量破壊兵器は本当にあるのか」と指摘し、メディアもブレア政権の主張を批判的に報道した。全国各地で大規模な反戦デモが何度も発生した。

 英国全体が戦争支持と反対で真っ二つに割れる中、議会で参戦決議を可決させた政府は、2003年3月20日、米国とともにバグダッドへの空爆を開始する。

 英米軍を中心とした多国籍軍の圧倒的な軍事力により、フセイン政権は間もなくして倒れた。しかし、大量破壊兵器は見つからなかった。

内乱勃発、テロ組織の温床ー様変わりしたイラク

 独裁政権を倒した後に平和で民主的なイラクができるーそんな米英側の青写真は、その後の数年で見事に打ち砕かれた。イラクを占領下に置いた米国はイラク軍の解体、フセイン政権時代の与党バース党の解党を進めて党幹部に対する公職追放を実施したが、職を失い、怒り、武装したスンニ派とシーア派の内乱が発生するようになった。

 イラクはアルカイダなどのテロ組織の温床ともなった。ISの前身「イラク・イスラーム国」がイラク中部ファルージャに生まれている。これにアルカイダ系戦闘員が合流して、現在のISになったと言われている。

 2011年12月の米軍完全撤退時までに、米軍兵士は約4500人、イラクの民間人は少なく見積もっても10数万人が亡くなったといわれている。民間の死亡者は50万人から60万人規模ともいわれているが、正確な数字は不明だ。

 「違法な」戦争に加担してしまったこと、多くの死者が出たこと、現在のイラクの惨状など、そのどれもが英国民にとっては痛みであり、どうにも納得がいかないことである。

 英国を戦争に向かわせたブレア元首相、国会で参戦動議に賛成した議員たち、侵攻を可能にするためにイラクの脅威についての報告書を作った情報部の幹部たち、新たな国連安保理決議がなければ戦争は違法とする法的立場を途中から変えた法務長官――支配層に「裏切られた」と思うのは先のジャーナリスト、オボーンだけではなかった。

チルコット委員会までの長い道のり

 英国ではイラク戦争についての大掛かりな検証作業が数回にわたって行われてきた。

 税金を使った一連の検証作業が行われてきたのには、国民の側に「嘘の諜報情報で戦争に加担させられた」ことへの無念さと怒りが存在したことが大きい。

 しかし、チルコット委員会に至るまでの道は長かった。

 2003年の下院外務委員会などによる検証では、大量破壊兵器保有についての情報が確かだったかどうか、侵攻が合法だったかどうかが問われたものの、「イラクの脅威は確かに存在した」と結論付け、国民の期待に十分に添うことができなかった。

BBCのスキャンダル

 この年の5月末、BBCラジオのある報道が大きな政治スキャンダルを発生させる。

 開戦前の2002年9月、政府は「イラクが45分以内に大量破壊兵器の実戦配備が可能」とする報告書を出していた。BBCは、この報告書が「イラクの脅威を誇張していた」と報道し、「45分の脅威」の信憑性を問題視した。記者は第1報で「嘘と知りながら、情報を入れた」とうっかり口を滑らせた(後、訂正)。ブレア首相には「嘘つきブレア」というあだ名がついた。

 政府は「誇張していたのではない」と証明するためにやっきとなり、政府とメディア(BBC)の対決となった。

 外務委員会が調査を開始し、証人として呼ばれた一人が国防省顧問のデービッド・ケリー博士だった。召喚の数日後、ケリー博士が遺体で発見された。後になって、博士が先のBBC報道の重要な情報源だったことが判明する。

ハットン委員会と「ごまかし」

 博士の死をめぐる事実関係を解明するために行われたのが「ハットン調査委員会」だ。ブレア首相やほかの政治家、諜報情報組織の幹部、BBC関係者など70人が召喚され、その模様は動画中継された。

 この時、正式には博士の死をめぐる調査委員会ではあったが、多くの人がいかに侵攻までの過程が違法であったのか、いかにブレア政権が「嘘をついて」国民を戦争に連れて行ったのかが解明されると思っていた。

 ところが、04年1月に発表された報告書は、博士の死を自殺と結論づけたのは妥当ではあったものの、BBCの報道は誤報とし、政府が情報を誇張した事実はないとしたために、大きな衝撃となった。

 全国紙インディペンデントは1面に一言、「ホワイト・ウォッシュ(ごまかし)」と書いた。ハットン委員会が政府の嘘をごまかした。そんなメッセージだった。

 BBCの経営陣トップ、二人は引責辞任をした。トップ二人が一度に去るのは前代未聞である。

 「政権が諜報情報を誇張していた」とするラジオ報道を弁護し続けてきたグレッグ・ダイク会長はそのうちの一人だったが、BBC職員らが制作拠点のBBCテレビセンターの前で「ダイクを戻せ」というプラカードを持って抗議デモを行った。

バトラー委員会で検証をやり直す

 大々的な調査を行ったハットン委員会でも「ブレア氏の嘘」は証明できなかった。しかし、このときまでに開戦前にあると言われた大量破壊兵器はまだ見つかっていなかった。やはり戦前の政府の諜報情報は間違っていたのではないか?

 国民のブレア政権への不満感、「嘘をつかれたのではないか」という疑念はハットン報告書が出たことで、収まるどころかむしろ強くなった。とうとう諜報情報の正確さを問う調査会(「バトラー委員会」)がハットン員会の報告書が出た翌月から検証を始めることになった。

 5カ月後の04年7月、バトラー委員会の報告書が出た。その結論は、戦争反対派にとってはひとまず溜飲が下がるものだった。

 バトラー報告書によると、フセイン政権のイラクが「配備できる生物化学兵器を開戦前には所有していなかった」、「この点からイラクがほかの国より緊急な課題であった証拠はなかった」、「45分の箇所を裏付ける十分な情報がなく、2002年の報告書に入れるべきではなかった」。

 一方、02年の報告書をまとめた統合情報委員会は「不十分な情報を元に性急な報告書を作った」が、その評価や判断が「政策への配慮から特定の方向に引っ張られたという評価は見つからなかった」と報告書は指摘した。

 バトラー報告書は、諜報情報が不正確であったと結論付けながらも、政府の意向によって内容が改変されたことはないとした。

「さらに総括的検証が必要」ーチルコット委員会へ

  ここまでに及んでも、ブレア首相および時の政府が「イラク攻撃ありき」で諜報情報をゆがめたのかどうか、あるい「国際法上違法である可能性を認識しつつも、参戦したのどうか」が解明されなかった。

 国民を「だまして」、「違法な」戦争につれていったのかどうかが、はっきりしない。

 そこで、イラクの混迷への責任を問うためにも、政治的な決断も含めての総括的な検証のために立ち上げられたのがチルコット委員会だ。

 委員会は、2009年7月、ブラウン首相(当時)の提唱によって設置された。

 調査の目的は、「2001年から2009年7月末までの、英国のイラクへのかかわりの検証」(委員会のウェブサイトより)だ。どんな政治的な決断があり、どのような行動がとられたかも含め、「何が起きたかをできうる限り正確にかつ確実に把握することで、どんな教訓が学べるかを特定する」ことを狙っている。

 委員会のメンバーはブラウン氏が選択し、高級官僚チルコット卿のほかに歴史家が2人、前ロシア大使、上院議員の5人だが、2015年にチャーチルの伝記で知られる歴史家マーティン・ギルバート氏が亡くなり、最後は4人となった。

 09年11月から英国内外の政治家、軍事関係者、外交官などに対する公聴会が始まり、2011年2月まで続いた。約150人が証人となり、公聴会の模様はウェブサイト上で同時発信されたほか、提出された書類とともにアーカイブとして残されている。委員会は15万点に上る政府書類にも目を通した。

「戦争と平和」の4倍の長さとなる調査報告書

 報告書は260万語もの膨大な書類となる。トルストイの「戦争と平和」の4倍の長さに相当する。

 2011年に公聴会が終了後、報告書の発表までに5年を要した理由として、集められた情報が巨大であったことや、事実関係や機密事項が不用意に公開されていないかどうかの確認、また関係者による内容の検証(報告書の批判に対し、該当者が申し立てをする機会が与えられる)があったと言われている。

 報告書の最大の注目点は、今でも「違法かどうか」が問われているイラク侵攻を主導したブレア氏に対する評価だ。

検証をすることの意味

 報告書は膨大な量の情報を含んだものになるため、序文だけでも相当なページ数になる。歴史家や研究者をのぞくと、ほとんどの人が報告書の概要などを中心に閲読することになるだろう。

 しかし、全文を熟読するのはごく限られた少人数であったとしても、一つの戦争の前後を詳細に記録したことの意味は大きい。

 イラク戦争は一つの国を破滅状態にし、ISが生まれる道を作った。イラクの現在の混迷は2003年の侵攻と直接結びついている。だからこそ、戦争の全貌を明るみに出す作業に英国民は無関心ではいられない。

 一時はブッシュのプードル犬と言われたブレア元首相。米英は「特別な関係」にあるとも言われるが、果たして、国民からすれば違法とも思える形での侵攻にまで付き合う必要があったのか。世界最強の軍事力を持つ米国に「強ければ何をしてもよい」というお墨付きを与えてしまったのではないか。そんな疑問を持ち続けている。

 人の生と死にかかわる政治家の嘘を国民は覚えているものだ。今はアルカイダの代わりにISが悪役になったが、今も続く継続中の「テロの戦争」に、ブレア元首相によって「関与させられてしまった」ことへの痛みと無念さがある。

 この痛みと無念さをイラク戦争の経緯を覚えている英国民は忘れない。

 (次回は、チルコット報告書の概要を紹介。)

ジャーナリスト

英国を中心に欧州各国の社会・経済・政治事情を執筆。最新刊は中公新書ラクレ「英国公文書の世界史 -一次資料の宝石箱」。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 連載「英国メディアを読み解く」(「英国ニュースダイジェスト」)、「欧州事情」(「メディア展望」)、「最新メディア事情」(「GALAC])ほか多数。著書『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス』(洋泉社)、共訳書『チャーチル・ファクター』(プレジデント社)。

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