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東京五輪を政権批判のダシに使うのはやめていただきたく……

川端康生フリーライター
(写真:ロイター/アフロ)

目まいがするのは……

<光る波、白い砂。>という書き出しで始まった朝刊のコラムが、海水浴場が<開くべきか、開かざるべきか>シーズン本番を前に悩んでいることを取り上げていた。

 僕も海水浴場のある町に住んでいるから事情はわかる。だから、<市町村によって結論>が分かれる悩ましさもわかるし、感染を心配する住民からの声で不開設を決めざるをえなかった自治体の<現実が切ない>という思いにも共感する。

<開こうとも開かずとも煩悶の夏である。>で結ばれていれば、そのまま次のページをめくっただろう。

 ところが、である。末尾にもう一文ついていた。

<一方、五輪の準備は粛々と進む。その落差に目まいがする。>

 一方? 海水浴場と五輪を並べて? 準備が粛々と進んでいることに? は?

 朝から<目まい>がしたのはこっちの方だ。

 最近、この手の物言いが多い。プロメディアでも、SNSなどの個人メディアでも、毎日目や耳にするほど度を越して多い。

 言うまでもなく、海水浴場の不開設と東京五輪の準備の間には、因果関係はもちろん、相関関係もない。

 もちろん現在の感染者数の増加と東京五輪にも何の関係もない(だって、まだ始まっていない)。

 ついでにいまのうちに言っておけば、大会期間中に感染者数が増えたとしても、五輪とはほとんど関係がない。この1年半繰り返し伝えられてきた通り、発表される数字は「2週間前」の結果である。オリンピックは約2週間だから、影響が表れるとしたら閉幕後になる。

 いずれにしても海水浴場と東京五輪はまったくの無関係。それを比べて(そもそもどう比べるのかわからないが)落差を訴えるのは無理筋というものである。

粛々と準備

 まして、五輪の準備が粛々と進められているのは当然である。開幕はもう目前なのだ。準備が進められていない方がむしろ目まいがする。

 それに、スポーツに限らず、音楽だって演劇だってどんなイベントだって、準備は主催者の務めだろう。

 コロナ禍の現在は、予定していたイベントが開催できるかどうかさえわからないが、それでも開催できることを信じて(もしかしたら中止になって無駄になるかもしれないけど)準備する。それも、観客制限になった場合、無観客になった場合、と様々な状況を想定して、普段以上に繊細な準備をする。

 それが昨年来、あらゆる主催者が置かれている立場であり、果たさなければならない責任ではないか。朝日新聞だって夏の甲子園の準備を粛々と進めているはずである。

 しかもオリンピックは世界のスポーツ大会だ。日本人のためだけの大会ではない。

 そもそも東京五輪は、「オリンピック」というIOCのイベントを、「うちでやりたい」と東京都が手を挙げ、世界の他都市との招致合戦の末に「開催地」を勝ち取った大会なのだ。

 パンデミックに襲われたことは不運に違いないが、しかし開催する以上、少しでもいい大会になるようにできる限りの準備をする。何より、競技が滞りなく行われるように大会を運営する。

 それが開催国となった日本の立場であり、責任でもあると思う。元来、組織員会はそのために存在するわけで、粛々と準備を進めるのは当たり前である。

 一体何が気に入らないのか。

東京五輪は悪者か

 すでにお察しの通り、冒頭のコラムは「天声人語」である。

(いまはどうか知らないが)僕が子供の頃は授業でも使われたし、試験にも出題された。いつも名文だったかはともかく、“お手本”にできる文章の代名詞だった。それがこの有り様である。

 念のために改めて説明しておくが、書き出しから一貫して海水浴場の話である。それが最後になって突然、<一方……>と引用したくだりが出てきて終わる。

 こんな無理筋な文脈が成り立つなら、「飲食店は煩悶の夏である。一方、高校野球の準備は粛々と進んでいる」とか、「東京五輪組織委員会は煩悶している。一方、プロ野球やJリーグは非常事態宣言下でも全国各地で粛々と行われている」とか……。

 いや、朝日を責めたいわけでも、文章の整合性を問いたいわけでもない。

 もちろんこの筆者だって「海水浴場が開設を悩んでいるのだから五輪の準備も進めるな」と言いたいわけではないだろう。

 たぶん意図は「感染がいつまでも抑制されない」、「それは政府のせいだ」、「おかげで(昨年に続き)今夏も海水浴場が煩悶を強いられている」といったあたりだと察する。

 要するに、政権批判の代わりに「東京五輪」を使ったのだと思う。

 しかし(言うまでもないことだが)これはちゃんちゃらおかしい。東京五輪=政府ではもちろんないし、その政府の失政の結果でもない。開催が決まったのは8年も前である。

 政権批判ならまっすぐやればいいのだ。なぜ政権批判の象徴のように扱われて、無関係な話題にまで引っ張り出されなければならないのか。

 朝日のコラムだけではない。あらゆる紙面の記事や見出し、さらには新聞だけではなく、テレビやネットなどあらゆるメディアで、いまや東京五輪は政治不信の的、あるいはハケ口と化している。

 僕は(応援ではなく)スポーツ競技そのものが好きだから、こうした状況は看過できない。

 もちろん、東京五輪がコロナ禍を起こしたわけでもないし、感染拡大を招いているわけでもない。いまのところ、まだ何もしていないのだ。

 それなのに、もはや完全に悪者扱い。ひどい話である。

それでも大会は“成功”させたい

 そういえば組織委員会で働く知人は最近、勤務先を口にしないようにしているという。相手からどんなリアクションが返ってくるかわからないからだ。

 東京五輪が悪者なら、それに関わっている人も悪者、あるいはぼったくり男爵。そう妄信している人が少なからずいるのだ(単なる出向サラリーマンなのに)。

 これまで「感動したり勇気もらったり」していた(はずの)人が、手のひらを返すように「見る気が失せた」などと呟いてるのは僕も何度も目にした。

 そんな書き込みを見ると、もともとスポーツが好きだったわけではなく、盛り上がりたかっただけなんだろう、と思うしかない。残念だが、それが日本の現実なのだと諦めるしかない。

 本当に寂しい話である。

 それでも、そんな逆風下であっても、組織委員会には粛々と準備を進め、大会を円滑に運営してもらわなければならないと強く願っているのは、その準備開催能力こそが(今回のオリンピックに限らず)開催地争いにおいて日本のストロングポイントだったからだ。

 世界には、開幕が迫ってもスタジアムなどの施設がまだ完成していない、いざ開幕してみたらトラブル続き……そんな国だってある。でも、日本ならそんなことはない。

 生真面目過ぎて窮屈な面もないわけじゃないけど、でもあの国なら問題は起きないよね、宗教や民族問題、それにテロの心配もほとんどないし……それが選ぶ側(五輪ならIOC)からみれば日本開催の大きなメリットとなってきたのである。

 せめてそんな強みくらいは堅持したい。

 今回の東京五輪は、サッカーと自転車とテニスのビッグイベントをコロナ禍で遂行し終えたばかりのヨーロッパの人々にはたぶん奇異に映ることになる。

 世界中から来日する関係者の中には、あまりの完璧主義に辟易とする人も出るかもしれない(「ゼッタイアンゼンアンシン」と紹介されるだろう)。

 それでも、なんだかんだ言っても「あれほどの感染対策を実行できたのは日本だったから」。そして、次のパンデミックが起きたとき、「あの日本でならできるんじゃないか」。そう思い出してもらえるくらいの印象は残しておきたいと思うのだ。

 そうでないと――かつてのようにスポンサー看板をずらりと並べられる日本経済ではもうない。どうやらそれほどスポーツ好きな国民でもないらしいこともバレた。そもそも遠いし、高温多湿でハイレベルの競技は望みにくいし、そういえば、地震や台風の自然災害もあるし……。

 世界がオリンピックやワールドカップの開催地に日本を選ぶ理由が本当になくなってしまいかねない。

 感染症対策も加わり、かなりの難易度のミッションである。それでも何が何でも大会は“成功”させなければならない。組織委員会には頑張ってもらわなければならない。

フリーライター

1965年生まれ。早稲田大学中退後、『週刊宝石』にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツ誌を中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

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