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流用疑惑の芥川賞候補「美しい顔」 それでも高く評価される理由とは?

石戸諭記者 / ノンフィクションライター
群像6月号より(筆者撮影)

 7月18日、第159回芥川賞が発表される。最大の注目は東日本大震災を舞台にした北条裕子さんの「美しい顔」が受賞するか否かだ。作品は震災をテーマにしたノンフィクション、被災者の手記からの流用が指摘されているが、識者からは「上半期ナンバーワン」といった声が上がる。作品の評価はどこでずれているのか?

群像6月号より
群像6月号より

文学研究者はどこを評価したのか?

 7月17日、芥川賞発表前日に控えた東京・六本木にある「Abema Prime」のスタジオで、私は名古屋大大学院准教授・日比嘉高さんと作品を巡って議論を交わした。

 私はこの小説について、手記や作品に対して敬意を欠いた流用を重視し、批判的な立場を取ってきた。一方の日比さんは自身が担当する『文學界』の新人小説月評で「上半期で一番」に推し、疑惑が浮上してからも作品の価値について一定の評価を与えている。

 「美しい顔」は東日本大震災で母親を亡くした女子高生を主人公に、彼女の目線を通して一人称で綴る小説で、文芸誌「群像」(講談社)の新人文学賞を受賞した。7月18日に発表される芥川賞候補にも選出されている。

 北条さんは「被災地に行ったことは一度もありません」と明らかにし、「被災者ではない私が震災を題材にし、それも一人称で書いた」ことを「罪深い」とした。

 ところが、受賞後、石井光太さんのノンフィクション作品『遺体 震災、津波の果てに』(新潮社)や、金菱清編の手記『3.11 慟哭の記録 71人が体感した大津波・原発・巨大地震』(新曜社)などの表現に酷似している部分があったことがわかった。

細かい類似点についてはhttps://news.yahoo.co.jp/byline/ishidosatoru/20180707-00088468/を参照してほしい.

北条さんは「参考文献への扱いへの配慮を欠いた」としてお詫びを発表した。 

私と日比さんはどこで見解を異にし、どこで合意できたのか。

 結論を先に書いておく。私たちの最大の違いは「評価のポイントをどこにおくのか」。つまり、重視するポイントの違いである。

 日比さんは東日本大震災という現実に起きた出来事を、女子高生の1人称で再構築した世界を提示したことを評価する。

 「主人公の一人称で物語が進むが、その私語りにドライブ感がありましたし、被災地の状況を描きながら、彼女が新しい一歩を踏み出すまでを描いた作品。力のある作品だと感じた。

 震災から7年経っていることを改めて考えさせてくれる作品だった」と番組内で語っていた。

 自身のブログでも「小説の言葉は奪うが、自分自身のために奪うのではない。『収奪』は、社会的な意味変換装置としての小説の機能の、ほんの一面でしかない。小説は収奪するかもしれないが、その先で放ち直している」と小説という表現手法でしか描けないことがあることを強調している。

問題は作家の「姿勢」

 私は小説の根幹は前半部分のディティールの描写にあり「一度も行ったことがない」ことを強調しながら、小説の世界が、被災者の手記やノンフィクション作品からの流用によって成立していたことを重視する。

 これは被災地に行かないと小説を書いてはいけない、被災を経験した当事者でなければ震災を題材にしてはいけない、当事者がダメだと言ったものを書いてはいけないという意味ではない。

 小説は誰が書いてもいいし、表現はすべてに開かれている。経験していようがいなかろうが、フィクションを通じて事象の本質に迫ることは小説の役割だろう。

 また、たとえ当事者がダメだと言っても書くべきことは、執筆者が責任をもって書くということはある。

 今回の問題は作者の姿勢そのものにある。

 受賞後に「被災地に一度も行っていないこと」は明らかにしながら、参考文献の存在は指摘されるまで明らかにしなかった。

 北条さんは被災者の手記『慟哭の記録』の編者、東北学院大の金菱清教授に謝罪の手紙を送っている。

 私の取材に対し、金菱さんは謝罪に違和感が残ったと語っていた。北条さんが手紙の書いていたのは「震災そのものがテーマではなく、私的で疑似的な喪失体験にあり、主眼はあくまで、(彼女自身の)『自己の内面を理解することにあった』」という執筆動機だったからだ。

 北条さんは小説を通して「震災」の本質をどこまで描きたかったのかよくわからず、震災を自己理解のために書いた小説のネタとして使っただけではないか。しかも、一部とはいえ描写に流用したのではないか。

 この姿勢は批判されて当然というのが私の主張だ。繰り返しになるが、被災地に行かずに書いたことは大した問題ではない。

むしろ、大事なのは一致点

 大事なのは、この小説を巡り、私と日比さんの間で一致したことにある。

『慟哭の記録』表紙
『慟哭の記録』表紙

1:類似表現は改めるべき

 まず私も日比さんもこのまま出版されることを良しとはしていない。類似した表現については改めるべきだと考えている。

 日比さんは「表現を引き写してそのまま書いてしまったことについては言い訳不能」として、苦労して手記にまとめたり、取材で託されたりした言葉を「横からかすめ取るようなこと」は許されないと話していた。

 私も大いに同意する。北条さん自身がもっとテーマを深めれば、引き写したかのような表現を使わずとも、世界を再構築することはできたはずだ。

 これは書き手の姿勢の問題であり、なにも震災に限ったことではない。戦争を舞台にしようが、あるいは犯罪被害者を主人公に据えようが同じことだ。

参考文献があることはいい。想像で描くこともいい、しかし、表現を「借りすぎ」たり、敬意を欠いた言葉は批判の対象になる。それだけの話だ。

2:芥川賞にふさわしくない

 そして、この作品は芥川賞にふさわしくないと考えている。いずれにしても修正は必須であるとするならば、この段階で芥川賞を与えるという決定は支持できないということだ。

3:盗用論争では大事なことを見落とす

 「盗用」「剽窃」「パクり」といった強い言葉だけで、この小説を論じることが不要であることも一致した。

 この作品を巡って議論が巻き起こったが、多くは「パクり」であるか否かに終始している。だが、問われているのは「2011年3月11日」以降の描き方だろう。ノンフィクションかフィクションかに関わらず、あの日からを生きるということはどういうことなのか。より本質に迫る言葉が必要だが、それはいかにして可能なのか。

 問われているのはそこだ。

記者 / ノンフィクションライター

1984年、東京都生まれ。2006年に立命館大学法学部を卒業し、同年に毎日新聞社に入社。岡山支局、大阪社会部。デジタル報道センターを経て、2016年1月にBuzzFeed Japanに移籍。2018年4月に独立し、フリーランスの記者、ノンフィクションライターとして活躍している。2011年3月11日からの歴史を生きる「個人」を記した著書『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)を出版する。デビュー作でありながら読売新聞「2017年の3冊」に選出されるなど各メディアで高い評価を得る。

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