「なぜ母は亡くなったのか」 津波で家族を失った少年、見つけた大学へ行く意味 #あれから私は

大槌町の蓬莱島で海を眺めるケイくん。再建された赤い灯台とともに(撮影:平井慶祐)

「久美さん、ようやく東京の大学に合格しました」。そんな電話を岩手県釜石市のケイくん(仮名、18歳)からもらったのは、2月の終わり。子どもたちの学びを支えるNPOカタリバにとって大きな吉報でした。東日本大震災で母と弟妹を亡くして10年たった春、ケイくんは「“防災”を考え続け、地域に還元できるリーダーになりたい」と話しています。

母も弟も妹も、家ごと津波に飲み込まれた

「あの日は、突然の大きな揺れに、教室の机の下に隠れました。先生の誘導で、まず高台に逃げましたが、そこも危ないだろうと『もっと上へ、もっと上へ』と山を登って。山の上で、津波が町を飲み込んでいく様子を、木々の隙間から見ていました」。当時8歳のケイくんはその夜、避難所に駆けつけた父と合流はできたものの、母と6歳の弟、3歳の妹とは会うことができませんでした。

震災で約1300人が亡くなったり行方不明になったりした釜石の中でも、自宅があった鵜住居(うのすまい)地区は壊滅的な津波の被害を受けました。

後日、母と弟は、変わり果てた姿で見つかりました。地震発生時、母親は自宅で友人とお茶を飲んでいたようでした。「近くの高台に逃げる約束だったけれど、大きい地震の時は駆け付けると言ったから、自分を待っていたのだろうか…」。そうひどく悔やんでいた父は、行方がわからない妹を探すため、夏頃まで会社を休み、その後も半年ほど午前は仕事で午後は捜索という生活を続けました。

「弟は、“にいにい”と後をよく追いかけてきて、『ぼくも野球のグラブが欲しい』と言っていた。もう少し大きくなったら、一緒に野球をしたいと思っていました。負けず嫌いだった妹のことも、時折思い出します。10年たつ今も、妹は見つからないままです」とケイくんは話します。

大槌高校のグラウンドを歩くケイくん。大槌高校は震災時は津波を逃れ、グラウンドは自衛隊の駐留所になっていた(撮影:平井慶祐)
大槌高校のグラウンドを歩くケイくん。大槌高校は震災時は津波を逃れ、グラウンドは自衛隊の駐留所になっていた(撮影:平井慶祐)

「東京の大学に進学したい」という夢を持ったケイくん

そんなケイくんとカタリバとの出会いは、2019年6月。ケイくんは野球がやりたいと釜石から遠く離れた高校に進学したものの、うまく寮生活になじめず、釜石の隣町にある大槌高校に転校してきた生徒でした。

カタリバは震災を機に、大槌町と宮城県女川町で「コラボ・スクール」という放課後の居場所と学びの施設を立ち上げ、運営を10年間続けてきました。両拠点あわせて、見守ってきた子どもたちは1179名になります。

このご縁で、2016年からは大槌高校の職員室に3名のスタッフを常駐させています。震災を経験した町であることを活かした新カリキュラムの構築や学校広報などを担当しながら、高校生たちの個別の探究活動の支援をしたり、進学のサポートをしたりしています。

「東京の大学に進学して、神宮で野球がしたい!」という夢を話すケイくんに、まずは志望校のオープンキャンパスに参加して実際の雰囲気を感じてみることや、彼自身の興味関心を探究する学びを通じて「大学入学後に何を学びたいのか」を考えることを提案。「なんで母は、逃げ遅れて亡くなってしまったんだろう」というケイくんが抱えてきた問題意識を活かし、防災をテーマに一緒に取り組んでみることを決めました。

大学生インターンが、“ナナメの関係”で伴走

ケイくんは、「あのときなぜ人々は逃げ遅れたのか?」をテーマに研究をはじめました。はじめは、地域の小学生を対象に防災教育のワークショップを開催しましたが、もっと広い世代に避難を促す方法がないかと模索する中で、町の防災行政無線に着目しました。従来の防災無線アナウンスでは、「非常に大きな津波が来ます」といった曖昧な表現が使われており、災害の脅威が迫る感覚を受けにくいと考えました。

そこで「東日本大震災より大きな津波が押し寄せる可能性があります」と過去の災害と比較しながら危険を知らせるリスク想定型無線と、「ただいま、地震発生から10分が経過しました。津波が到達する可能性が高まっております」と発災からの時間を伝えて危険が迫っていることを知らせる時間制約型無線の2種類のアナウンスを考案しました。

それらを大槌町役場と協力して録音し、実際に高校生や町民200人に無線を聞いてもらってアンケートを行うと、約8割の人が「避難意欲が高まる」と回答。“見えない脅威を見える化”する呼びかけが避難を促す重要な要素になると結論づけました。このようなアイデアと地道な研究が実を結び、行政側が採用を検討しています。

活動を進める中で「君がやることで地域が変わるんだ」と大人から声をかけられ、ふだん感情を表に出さないケイくんが涙する瞬間もありました。「自分の取り組みに意義があると認められた」といううれし涙でした。

このときケイくんに伴走したのが、当時大学4年生の三浦奈々美です。三浦は中学1年のときに仙台で東日本大震災を経験し、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスで学んだ後、東北でまちづくりに取り組みたいとカタリバの大槌拠点でインターンシップスタッフとして働きはじめていました。高校時代はカタリバが開催した全国高校生マイプロジェクトアワードに参加した経験もあり、ケイくんにとっては家族でも先生でもない、まさに縦でも横でもない“ナナメの関係”の先輩でした。

「それまでのケイくんは高校になじめず転校したり、自信を失うようなこともあったと思うんです。でも学校の先生方や地域の方たちが手を差し伸べみんなでケイくんの強みをつくっていきました。多様な人たちが高校生の活動を認め応援する環境の大切さを感じました」。伴走を重ねてきた三浦は、そんなふうに話します。

カタリバ大槌拠点スタッフとしてケイくんの学びを支えた三浦(撮影:大槌高校)
カタリバ大槌拠点スタッフとしてケイくんの学びを支えた三浦(撮影:大槌高校)

第一志望に挑むも、なかなか花が咲かず…

三浦の伴走は、大学受験でも続きます。総合型選抜(旧AO入試)での合格を目指して毎日のように訪ねてくるケイくんと、活動を経て発見した避難を促す“見えない脅威を見える化”する呼びかけを、大学の研究ではテクノロジー技術によって解決できないかと模索。直接手を入れすぎて本人の思いとは違うものにならないように、あくまで「支える」ことを意識しました。

三浦は言います。「受験するのは本人です。AO入試や総合型選抜に合格するためのセオリーを指導する対策塾のような関わりはしたくありません。もっとこうしたら…と思うこともたくさんあったけど、私達が手を入れすぎて本人の思いとは違うものにならないよう、本人が自分で取り組むことを支えていきました」

コロナ禍で、大学の受験事情もさまざまな変更がありました。例えば面接試験の変わりにPR動画の提出で判断されることになるなど、誰もが経験したことのない新しい試験形態に戸惑うこともありました。三浦は、ケイくんの作成した提出物を何度もフィードバック。ケイくんは自分の気持ちと向き合い、何度も作り直しながら臨みました。

受験の回数を重ねてもなかなか結果は出ず、第一志望の大学に通ることはできませんでした。「本人はこれ以上できることはないというくらいまでやったのに、こんなにやってきてもダメかと苦しかった」と三浦。それでもケイくんが自分で次の一歩を選択していけるように、興味のありそうな大学や学部を一緒に調べ、チャレンジを支えました。

そして2月末日。合格の電話をもらったときは、私もほっと一安心しました。

「“防災”は、家族を亡くした自分がずっと持ち続けていくテーマなので、何ができるかは考え続けたいです。ただ上から指導するリーダーではなく、新しい価値を生み出せるリーダーになりたいと思っています。まずは自分の力を高めて、ゆくゆくは地域に何か還元していきたいです」。ケイくんはそんなふうに、これからのことを話してくれました。

野球部の後輩と話すケイくん。小2から10年間野球を続けている(撮影:平井慶祐)
野球部の後輩と話すケイくん。小2から10年間野球を続けている(撮影:平井慶祐)

東北で育った子どもたちが、次世代を支える側に

また、1年半の伴走を続けたスタッフ・三浦はこう話します。

「家族を亡くしたりしていてどこかに寂しい気持ちがあったり、誰かに認められたいという気持ちがある子が、大槌には多い。『やってみたら』と言葉を投げかけるだけではなかなか一歩踏み出せないけど、『私も手伝うから』って隣で手をつないで一緒にやっていくことがとても大事だなと感じました」

ケイくんの合格とともに、三浦のその言葉を、嬉しく頼もしく感じました。東北で生まれ育った子どもたちが、大人になって次世代の東北の子どもたちを支える側になる。三浦をはじめ、カタリバにも少しずつそうしたスタッフが増えてきました。

多くの悲しみがあったけれど、時間をかけてそれを乗り越え、ゆっくりと強さに変わっていく。どんな悲しみや辛い経験も、その子ども自身の力を信じて、声をかけたり隣で手を取りながら待ち続ける。そうした姿勢を持ちながら、これからも東北の子どもたち、そして全国の子どもたちを見守り続けていけたらと思います。

【この記事はYahoo!ニュースとの共同連携企画記事です】