クライム・ストーリーをピクニックのように

家族、親子をめぐる関係性を、彼らが引き起こした犯罪や事故という特殊な事態を通して見つめることが是枝作品にあってはさまざまなかたちで反復されてきた。犯罪には、人間の思考や欲望や対峙する問題が凝縮してあらわれるからだろう。

本作も赤ちゃんポストに預けられた赤ちゃんが売買目的で連れ去られることから始まる「犯罪劇」で、あまつさえそこには複数の「犯罪者」が絡んでいて、警察も尾行しているとなると、とてつもなく物騒な事態である。三面記事の見出し的にこの状況を表現すれば、きっとものものしいクライム・サスペンスふうになることだろう。

しかし、是枝が全篇を通して描く「犯罪者」たちの動静は(追跡する刑事たちを含めて)のんきなピクニックのようである。彼らの赤子を売るための旅路は、「犯罪者」たちをささくれだった心境に追いやるのではなく、互いの理解者を見出し、孤独な心を交流させ、癒しを得る時間と化すのだった。肉親に捨てられたり、関係が断絶したりと孤独に傷ついているこの彼らは、偶然のなせるこのメムバーの結成によってむしろ人間らしさを回復してゆくのだ。

是枝監督はこの「犯罪者」たちの表現から三面記事的な通俗を濾過してほのぼのとしたピクニックにしてしまう一方、繊細に演技や映像の紋切型を排除しながら彼らの旅路を点描し、奥ゆかしくも清新で鮮やかな場面の連続で語りおおせた。しかも、この是枝の演出意図は前作の『真実』から本作へとつづく外国人俳優の起用によってより引き立っている。前作のヨーロッパの俳優も、本作の韓国の俳優も、肩の力の抜け加減が実に素晴らしく、その自然体が是枝の生成りの映像とひじょうに相性がいいのだ。

特に本作ではソン・ガンホはもとより、カン・ドンウォンもペ・ドゥナもイ・ジュヨンも全員がはずれなしの素晴らしさで、技巧臭をふっきれない日本的な演技者は相当焦るべきだと思った。日本人俳優でないほうが是枝の演出の洗練が正しく認識できるというのはいかにもまずかろう。そして特に、画面から是枝の惚れ込みようが伝わってくるIUことイ・ジウンのプレゼンスは圧巻だった。大島渚は「最高位の演技者はシンガーである」と主張してやまなかったうえに自らもそのキャスティングを実践奏功していたが、IUの起用は本作の是枝演出の白眉といえよう。