作品と現実の「化学反応」が生む緊張と熱気

前作『なぜ君は総理大臣になれないのか』で自ら次回作のハードルを上げまくった大島新監督だが、話題の続篇『香川1区』は実に意気揚々とそれを乗り越えている。というか、いくらなんでもこれは面白すぎではないか。前作でも当初は何の気なく奥方の同級生である小川淳也氏を撮り始めた大島新監督だが、それを17年も続けるうちに取材対象の小川氏が勝手に興味津々の題材に育っていった。その結果がさまざまな支持と好評をとりつけた前作に結実したわけだが、さすがにそんな鉱脈にぶつかる幸運は二度三度とある由もなかろうと思いきや、続篇『香川1区』でもひたすら実直にキャメラを回すうちに、ほとんど勝手に「役者」が揃ってきて、この映画を盛り上げてくれるのだ!

言っておくがこれは何も大島新監督が対象の面白さにおぶさっているということではない。何かこういうこともありやという「予感」を持って、そこにキャメラを持って行くという直観や嗅覚こそがドキュメンタリー作家の一大才能であって、その何よりの好例が劇映画の巨匠であるとともに稀代のドキュメンタリストであった父君・大島渚監督の諸作であった。「ここには何か起こるのでは」という「予感」のもとにキャメラを回し続けたことが、あの伝説的な『忘れられた皇軍』の朝鮮人の傷痍軍人の眼球のない目からしたたる怒りの涙や、『新宿泥棒日記』のラストの新宿東口交番への投石の瞬間を奇跡的にとらえたのである。まさに前作から本作へと続く大島新監督の嗅覚には、この父君の資質の継承を感じずにはいられない。また、17年をかけて熟成させた前作に対し、2021年10月31日の第49回衆院選を山場として3〜4カ月で撮りあげ、ぎりぎり11月30日の立憲民主党の党代表選までをも押さえてクリスマス・イヴには劇場公開する、という対照的な超高速の勝負に打って出る「極端さ」も、常に制作スタイルを変え、大胆不敵な即製を好んだ父君の作風に通ずるものだ。

そして話を戻せば、こうした大島渚フレーバーも発散しながらその勢いやよしの大島新監督だが、「予感」どおりどころか、取材対象の人びとは「予感」を超えた「役者」ぶりを発揮して、本作を沸かせてくれるのだった。まず何より、前作で作品を面白く弾けさせた小川淳也氏が今回もまた期待に応えてやらかしてくれる。因縁の宿敵である平井卓也デジタル改革相(当時)からどう票を奪うかだけでせいいっぱいなのに、そこへトリックスター的に日本維新の会が送りこんで来た第三の刺客(この玉木雄一郎氏の元秘書で小川氏とも知らぬ仲ではなかった町川順子候補のおとぼけぶりもまた個性的な「バイプレーヤー」的配置)に出馬取り下げを直訴しに行って、それをまんまとSNSネタにされ、呆れた党の先輩の辻元清美氏にどやされる。心配して事務所にやって来た田崎史郎氏の助言には激昂し、こんなことをしていて野党の一本化ができないから、いつまでたっても一強政権を倒せないと持論を曲げない。小川氏の説はどこまでもラディカルで正論なのだが、常に冷静に眺めている父は「純なところのよさもあれど、足を引張る奴がいることがわかっていない」と心配し、小川自身も「人の悪意に慣れていない」(!)と自分にため息をつく。こんな50歳、しかも政治家という小川氏のイノセントにもほどがあるひとことに、私は噴きそうになった。魑魅魍魎の腹芸が跋扈する中央政界にあって、この小川氏の実直さ、ひたむきさはもはや「珍獣」なみの面白さである。冒頭の住まいの窓辺で大根を育てている理由がわかった時など本当におかしい。

こうした前作に続いての小川氏の巧まざる「役者」ぶりに匹敵するのが、対立候補の平井卓也氏やその陣営の支援者たちである。まず予想に反して大島新監督のインタビューを受けた平井氏は『なぜ君は総理大臣になれないのか』は観ていないがキャッチーな題名で感心したと述べて余裕の構えであったが、選挙戦のシビアさが判明してくると街頭演説で同作を「小川のPR映画」と決めつけて、こんなものが評判をとるなら全国の議員がPR映画を作るだろうと語り、たまさかそれを目撃した大島新監督に異議申し立てされるという、なかなかの「見せ場」を提供してくれる(その新監督が平井氏に詰め寄る際にわけのわからない茶々を入れて来るのがNHK職員というのもまたチョイ役ながら気になる「役者」登場の瞬間)。

さらには平井氏の演説を撮影していた前田亜紀プロデューサーのキャメラの前には、画に描いたような妨害をしてくる支援者が現れ、キャメラに対してこんなヤクザまがいのことをしていたら今どき平井陣営の深刻なイメージダウンにつながらないかと観ている側がはらはらするほどなのだが、とにかくこうして反=小川陣営の人びとまでもが頼んだわけでもないのに本作を捨て身で盛り上げてくれるのである。前田プロデューサーはついに「立憲の前田亜紀」というマンガ級のレッテルを貼られて排除されるのだが、こうして「傍観者」から「当事者」とみなされるようになった大島新監督も岸田首相の平井氏応援の会では入場を拒否される。なぜ取材拒否するのかと問われても理由が言えず固まった表情で入場を断り続ける係の男性の表情、あるいは和は乱すものではないと思考を停止して自民支持を語る島しょの住民たちの表情を見ていると、言わず語らずして事象のエッセンスを抽出するキャメラの力というものを感じてしまう。

ここで思い出したのは、同じくこの冬のドキュメンタリー映画の目玉である原一男監督の『水俣曼荼羅』だ。6時間12分に及ぶこの大作では、水俣病の認定基準の不確かさを認めない国や県の役人たちの、おのれの欺瞞を隠すエチケットすら放棄した目を見張る思考停止ぶり、慇懃無礼さに対して、水俣病の定義を深耕し続ける一部の医師たちの真実探求への意欲溢れるさま、逆境にあっての驚くべき前向きさが反復して描かれる。そして作品を観終えたあとに残像となって長く消えないのは、自らを裏切らない人間のやたら瑞々しい「顔」と裏切りと欺瞞が常態化している人間の誇りなく淀みきった「顔」の圧倒的な対比である。

この超長尺の作品で原一男監督が誰がどうとはひとことも言っていないように、「PR映画」の誹りを受けた前作ともども『香川1区』も、言葉で取材対象を美化したり、貶めたりするところなど皆無である。だが、取材される本人および周辺の人びとのありようを両氏それぞれについて映像で観てしまうと、この対照的なさまは何であろうかと思う。もはや余計なことは言わないが、この156分の「顔」たちが雄弁に語るものを通過すると、小川氏が「21世紀の関ケ原」と呼んだ今回の選挙戦の結果もむべなるかなで、一般市民の「5年後、10年後には全国が香川1区になる」という言葉もあながち大げさではないような気がしてくる。そして何度も言うが、こうした政治の構図がただ粛々とキャメラを回しているうちにここまでわかりやすいかたちで焙り出されたのは、ほかでもない各候補者とその周辺が「役者」となって絶好の「見せ場」をどんどん提供してくれたからである。

そんな本作を観ていると、この現実はまるで往年の代々木系の社会派映画のようではないかと思った。地方に根ざした権力組織、そこにただ同調して馴致されている無気力な市民、異分子を時として暴力で排除する支援者、これらに画に描いたような正義を貫徹して戦う清新でヒロイックな主人公……。こういう作品は「ヒーロー」「悪役」の二項対立が単純かつあからさまなので、映画として高級かどうかは置いておいて勧善懲悪のカタルシスは味わえて盛り上がる。しかしまた一方で実際の現実はここまで単純ではないから、これは反権力的ファンタジーなのだとたいがい割り切って観ていた。

ところが、今この鮮度に満ちた現在の映像からなる『香川1区』より見えてくるシチュエーションは、もはやこの古式ゆかしい社会派映画ばりの現実なのだ。だから、途中からはまるでフィクションを観るように冗談じみた痛快さを覚える。観てのお楽しみとしてここではふれないが、さまざまな周辺取材や資料提供によって見えてくる現実も、その事態の腐敗ぶりにナンセンスさも極まって、ほとんど劇映画を観ているような錯覚に陥る。もしこれらが今フィクションとして撮られたなら時代錯誤の三文左翼映画であろうが、すべてを掛け値なしの現実として差し出す本作はいかにも驚き(と呆れ)に満ちていて瞠目させられるばかりだ。そして数々の「役者」たちが描き出す思いのほかシンプルな対立構図にほとんど娯楽映画ばりにハラハラドキドキされられた後、しかし未だこんな古めかしい図式が敷衍できてしまう現在の地方、ひいては日本は本当にだいじょうぶなのかと苦味に満ちた余韻が残る。

ちなみにここまで反=小川陣営も含めての「役者」が揃ったことの大きな理由は、先ほど述べたように前作が評判をとったことで大島新監督が選挙戦の「傍観者」「記録者」ではなく「当事者」とみなされたことの化学反応である。ドキュメンタリストとしての新監督は、反=小川陣営が誹謗や妨害、排除に打って出るほどに、なぜそこまでして画に描いたような「役者」を買って出て恰好の「見せ場」を作ってくれるのかしらと舌なめずりしたことだろう。そこで期せずして「役者」として本作に加担してしまった人々には、まことに余計なお世話だが次の言葉を献じたい。これは、私が大島渚監督の生前の資料を精査するうちに、ついに実現できなかった児玉誉士夫をめぐる映画『日本の黒幕〈フィクサー〉』についてノートに走り書きしたひとことだ。曰く、「フィクサーは、沈黙が最大の武器だと知っている」。