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樋口尚文の千夜千本 第184夜『水俣曼荼羅』(原一男監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
(C)疾走プロダクション

見えざる権力は見える細部に畏怖する

あの『さようならCP』から実に半世紀近くが経ち、昨日観たかのように鮮烈な『ゆきゆきて、神軍』からも34年が過ぎ、いつしか76歳になっていた原一男監督だが、その年齢も長いキャリアもまるでその作風を鈍重にすることはなく、むしろそのまなざしはいよいよ軽快で率直でいきいきとしている。総尺6時間12分、しかも水俣病が題材と聞いてひるまぬ者はいないだろうが、全く臆することはない。近作の『ニッポン国VS泉南石綿村』が3時間35分、『れいわ一揆』が4時間8分といずれも長尺ながら面白さに釘付けになったが、観終えた後で最も時間が短く思われたのは6時間超えの本作かもしれない。

軽々に面白いと言っては題材的に不謹慎であるが、しかしこの間然するところなき面白さはいったい何であろうかと思う。かつて小田実に「何でも見てやろう」という著作があったが、本作の図太い面白さの根源はまさに「何でも見てやろう」というあくなき瞳の欲望である。それはドキュメンタリストがデフォルトで搭載している欲望かもしれないが、その旺盛さと発露の方法によってあがってくる作品はピンからキリまである。対象に粘る欲望が薄い作家なら、作品をどこかでそれらしい抽象性でまとめてお茶を濁すことだろう。

だが、本作の素晴らしさは掛け値なしに「何でも見る」という営為にある。たとえば、まずは「水俣病」とは何なのかについて、かつて御用学者たちが定義し、患者認定に悪影響を与え続けてきた「定説」を覆し、正確な再定義を図ろうとする医師の検証をキャメラは凝視する。幾度も念入りに映し出される手指の感覚障害を測るテストに始まり、有機水銀が障害を与える脳の部位の具体的な解説など、全ては可視化されてゆく。

実際、これだけ実物の脳が登場する映画もなかなか類を見ないだろう。かつて『ハンニバル』のレクター博士が生体を開頭してレアな脳を優雅に味見するというシーンがあったが、実際本物の脳はまるでグロテスクではなく驚くほどきれいで、それを検体にすべく包丁で切るカットなど高級白子みたいで本当に喰ったら美味そうですらある。そんな不届きなことを考えながら、しかしこんな物理的な実体によって人間の感覚は支配されているのかという素朴な驚きを感じ、また医師が「ここが有機水銀によって壊される」と指さす具体性に頷かされる。

具体性という意味で興味深かったのは、たとえばたびたび本作では水俣病の責任問題のありかをラディカルに追求しようとする患者、支援者と国や県の役人たちとの対峙が映し出されるが、こうした「瞬間」はニュースなどでもしばしば映っている。そこで政治の理不尽を糾弾する人々の姿は点描されても、彼らがそこまでなぜ峻烈な怒りを露わにするのかまではわからない。いかにテレビで報道はされようと、映っている患者や支援者は風景の一部のようなものに過ぎない。しかし原一男は、そこに集う名もなき市民たちの個々人にやんわりと接し、警戒心を解いて彼らの人となりや見識を静かに見つめる。患者たちや支援者たちの、ニュースではわからない魅力的な人となりやその抱える水俣病ゆえの辛さが、これも実体としてすくいとられる。この丁寧さを期すならば、おのずと6時間くらいは必要なのである。

一般のニュース映像に映る彼らは全く抽象的な存在に過ぎないのだが、本作のあたう限り実体としての彼らを描き出そうとする過程を経て、あらためてニュース映像的な対立のシチュエーションを見せられると、まるでこちらの見えるものが変わってくるのだ。それは、そこに映っている水俣の人びとが、なぜそこまで激しい怒りに駆られ、また失意に満ちた顔をしているのか、そのことが格段に生々しさを帯びて伝わってくるからだ。これもまた本作の志向する具体性の賜物である。

また、この怒れる人々の怒りの構造が見えてくる一方で、彼らの向き合う国や県の絶望的なだめさ加減も、ごく具体的な画として見えてくるのだ。本作で患者や支援者の訴えに直接向き合う役人たちの風貌、言葉遣い、そのほかさまざまな挙動のニュアンスを、映像はまるごととらえてしまう。その全員の表情に共通するものは、なぜ自分がこんなミッションを与えられてこの席にいなければならないのかという苛立ち、早くこの時が過ぎないかと願うようなうんざりした気持ちであり、その態度には誠実さの片鱗もない。

それはそうだろう。この役人たちは過去の難儀な問題を無難に処理せよと上から命じられているだけなので、正直貧乏くじを引かされたと思っているはずだ。だから彼らの誰ひとりとして親身に患者のことを考えようという目をしていない。ただ国のメンツ、県のメンツを守って時が全てを風化させるのを待ちながら、機械的答弁でその場をやり過ごすだけである。しかも演技でも共感同情のそぶりを見せないだけでなく、「(患者、支援者に)謝らない」という内々の決め事を書いたメモを発見されてつるし上げにあうというお粗末さである。

そして現場の役人のみならず県知事までもが自らを「法定受託事務執行者」と称して、自らの意思はなく国のお達しを遂行しているだけなので期待はするなという趣旨のことを言い放つ。こうしてキャメラは雄弁に、とことん具体的に国とは県とはどういうものであるかという実体を暴いてしまうのだ。やや大げさに言うと、この国家の思考停止というより思考放棄に近いありさまを、本作の映像はずばり画として見せてくれるのだが、この一方でまるで対極のものも記録される。

それは水俣病の原因追求に専心する孤高の医師の姿であり、ひたすら医学的な関心と責任感から真実に接近しようと試みる彼らは、将来この地域では村八分にあって仕事もないだろうと言いながら、「責任重大だがときめく」と至ってポジティブである。今ひとりの医師は、「感覚障害とはうまいものを食っても味がわからず、オマンコをしても何も感じないことなんだ」と患者たちの悲劇に具体的に寄りそって号泣し、結局人が生きるうえで大切なのは「自分を裏切らないことではないか」と語る。これ全て、あの意志を消して無表情を決め込む官僚たちへの痛烈な批判になっている。そして彼らがたどり着いた、国が誤った水俣病の判定基準にメンツをかけて固執してきたがあまり、その根拠が裁判で揺らいだ今、国が「水俣病をどう定義していいかわからなくなっている」(!)という状況は戦慄的である。

前言を翻して組織人の殻に閉じこもり、支援者から悲しい目で矛盾をつかれて動揺を押し殺す役人の表情を見ていると、その誇りを捨てて保身に汲々とするさまにもはや哀れみすら覚える。だが、若い彼らにとっては身に覚えのない、昭和の「大過去」から継承された負のミッションであろうと、患者たちにとって水俣病は容赦ない「現在」であり、理不尽にこうむった「被害」であって、それがあたりまえに償われない状況に激怒するのはごくまっとうなことなのだ。

事ほどさように本作は、水俣病問題と言う枠を超えて人の生き方や国家のあり方を、しなやかなアプローチのなかにも厳格に問う作品となっている。そして何より素晴らしいのは、その問題提起の全てが「目に見える」ということである。主題はあまりにも重たいが、作中でいきいきと張り切る曇りなき医師のように、原一男監督の(水俣の海底までも自ら潜る!)「何でも見てやろう」精神は本作を映画としてわくわくと実らせている。6時間12分が、あまりにも短い。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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