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樋口尚文の千夜千本 第163夜『日本独立』(伊藤俊也監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
(C)2020「日本独立」製作委員会

「論理」を突き詰め「幻視」に至る

一昨年の夏、大阪方面で映画を撮っていた時に、もうじき神戸で伊藤俊也監督が『日本国憲法』という作品にインすると聞いて胸騒ぎがした。以後、この作品はどうなったのだろうかと気になっていたが、コロナ禍騒ぎでかまびすしい師走に突如公開が決まり、いの一番に試写にはせ参じた。監督協会の『映画監督って何だ!』の試写の時もそうだったが、今回も伊藤監督が上映前にきりりと挨拶されて、私の真後ろでご覧になっていた。

伊藤監督の映画を観ていると、こうして一本一本をひじょうに大事にしている姿勢が画面からも伝わってくる。そんな緊張感のもと、とにかく理詰めで「何となく」撮られたマチのような部分がない緊密さに何より惹かれるのだが、さらに言うならば、私にとっての伊藤作品の魅力の核心は、そういった「論理」で撮ることが追求されるうちにどこか「幻視」じみたステージにいざなわれることなのだ。

伊藤作品のなかでも人気の『女囚さそり』シリーズでも時として時空がシュールな転調を見せることがあるのだが、あれとて映像的な粉飾ではなく、あくまで監督にとっては「論理」のもたらすものではなかろうか。カルト的怪作の誉れ高き『犬神の悪霊』ですら、超常現象は相次ぐものの、それらは監督の「論理」が生んだもののような気がする。だから、常にそういった超現実的な描写も軽やかで遊戯的ではなく、むしろ武骨でごつごつしている。どこかこなれていない、異物感のある夢まぼろしというものは、あまり映画では見かけない。だから、それがはたして監督の頑なな「論理」の涯ての跳躍なのか綻びなのかは断じがたいが、われわれは伊藤作品においてきわめて独特な「幻視」を味わうことになる。

それはさておき、もともと『日本国憲法』というタイトルであった本作だが、実際出来上がった作品を観てみても敗戦後にGHQ主導で新憲法を制定する際の日米の攻防がハイライトであった。外務大臣であった吉田茂を小林薫が演じているが、この特殊メイクが素晴らしすぎて見た目は吉田茂そのもの、配役を伏せておけば誰が演じているのかさえわからないのではなかろうか。そしてなかなか困った映画であった『ミッドウェイ』でも意気揚々と孤軍奮闘していた浅野忠信が、ここでも血気盛んでダンディな白洲次郎を快演している。「うまく占領時代をやり過ごせばまた憲法は変えられるさ」とGHQにタヌキな面従腹背を決め込む吉田茂、彼に請われて交渉役を任されたオオカミ的資質の白洲次郎、この対照的な二人がGHQの「示唆」を装う強権的な「指令」にどう向き合ったか、そこが本作の軸である。

とはいえ、この作品で描かれるおおかたの出来事は、今や中学高校の教科書にも書かれていることだ。戦後、実は政府は大日本帝国憲法の改正を喫緊の課題とは見なしていなかった。しかし、45年10月には東久邇宮内閣の国務大臣であった近衛文麿にマッカーサーが憲法改正を示唆、わずか一年後の46年11月3日には日本国憲法が公布される。天皇制の根強さを知るGHQは、その存続なくして安定した占領統治はなしえないと判断したわけだが、それにしてもここまで制定を急いだことには理由があった。それは、ソ連が天皇制の廃止を要求して共和制に移行させ、ひいては戦後の極東の勢力図を揺さぶろうと目論んでいることをキャッチした米国が、極東委員会の開催までに機先を制するためであったとされる。

こういう歴史のアウトラインはみんな知っていることだが、これを実際に動く人間で画にしてみるとなかなか興味深い。国務大臣・松本烝治(柄本明)を委員長とする憲法問題調査委員会は46年2月には「憲法改正要綱」をGHQに提出する。だが、天皇が統治権を総攬するという大日本帝国憲法の原則が変更されていなかったので、総司令部の逆鱗にふれ、差し戻される。総司令部による劇画のような恫喝のシーンが描かれるのだが、しかし実際にマッカーサーはGHQのメンバーに恫喝の権限を認めていたのだから、現実にもこういう場面はいくらでもあったのだろう。

一方でこのまま日本人に委ねていてはソ連の天皇制廃止論を着火させてしまうと危惧したGHQは、独自の草案を作って日本政府に指針として示すことにした。ホイットニー准将以下25人の起草チームには、弁護士資格を持つ者が4人いただけで憲法学を学んだ者はなんと一人もいなかった。映画では、なんともいえない若い女子がメンバーの一人としてうろちょろしている。こんななんとも言えない選抜グループが驚くべき短時日でマッカーサー草案をまとめ、恫喝的な強制で認めさせた。戦後日本を支えてきた憲法の成り立ちはこんなものだったのかと、画にされるとなんともシニカルだ。

そして、松本案の拒絶とともに予期せざるマッカーサー草案を手交された吉田茂と白洲次郎はGHQの恫喝を受けつつしたたかに驚くのだが、タヌキとオオカミの反応は考えることは同じでも表現としては対照的だ。ただこの作品の意図を繊細に汲んでみると、だからと言って伊藤俊也は今どきの「米国お仕着せの憲法は改正すべし」的な議論に与しているとも思えないのである。もちろん功罪はあれど、いかに胡乱な成り立ちの、あてがわれた憲法であれ、戦後75年を経て多大な結果オーライの部分を帳消しにするのも乱暴だろう。

伊藤俊也が好対照の吉田茂、白洲次郎を描きつつ訴求するメッセージは「異議ありに意義あり」ということで、1998年の『プライド・運命の瞬間』でも何もかも敗戦国の責任に帰そうとする連合国に対して、東條英機(津川雅彦)が東京裁判で決然と異議を唱えていたことに共鳴している。だがそれは東條の思想を再評価しようということではない。伊藤俊也は、苦境にある人物が筋目を通して自分に忠実にアンガージュする、その生のベクトルにのみ共振している。そしてまた『日本独立』も当時の恫喝的な米国やお仕着せの憲法を刺しているというよりは、現在の「異議」なき日本人を撃っているのだろう。

そして本作は史実を画にした作品であり、人物の隈取りで情念を描く(というのも何と理屈っぽいことか!と思うのだが、そこが伊藤作品にあっては特異な魅力なのだ)ような超現実シーンもないので、「幻視」的な細部はあまり見出せないようにも見えるが、しかしこの執拗な感じさえする小林薫の「吉田茂」化やGHQ准将のデフォルメされた恫喝ぶりなど全てが伊藤俊也のイデアをかたちにした「幻視」的世界というふうにも見えて来る。

ところでこれは日本史に詳しい向きには常識なのかもしれないが、新憲法制定ブレーンの顧問であった美濃部達吉(佐野史郎)が、国民主権で軍備を封じた新憲法案に激しく抗議するシーンを観て意外だった。美濃部と言えば戦前に天皇機関説を軍部から激しく批判された人物なので、GHQの起草であれ何であれ天皇を象徴化して権力を剥奪し、国民に主権を与えることに諸手をあげて賛同したのかと思いきや、委員会でたった一人異議を唱えた。その主たる理由は、天皇主権を国民主権に変えることは「国体の変更」にあたるので受け入れられない、ということだった。

そもそも天皇機関説は、大正天皇も昭和天皇も支持していた理論で、これを反天皇制的な思想と見なして弾圧したのはあくまで軍部ファシズムなのだった。しかしその野蛮な言いがかりとは裏腹に美濃部はもとより天皇主権を国家のひとつのあり方として支持しており、そのゆえに何と日本国憲法草案を頑なに認めなかった。こういう細やかな事実は映画にでもしてくれないと日頃なかなか調べないことなので、本作のような映画が作られるのはそういう意味でもありがたい。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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