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樋口尚文の千夜千本 第155夜「喜劇 愛妻物語」(足立紳監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
(C)2020「喜劇 愛妻物語」製作委員会

「笑い」と「怒り」のしたたかなシーソーゲーム

この映画のタイトルを見て、ある年代以上の映画ファンは懐かしく思うだろう。最近亡くなった森崎東監督の作品には『喜劇 女は度胸』『喜劇 男は愛嬌』『喜劇 女は男のふるさとヨ』『喜劇 特出しヒモ天国』などなどアタマに「喜劇」が冠されているものがたくさんある。瀬川昌治監督に至っては50余本の作品のうちなんと約半分が『喜劇 急行列車』『喜劇 開運旅行』『喜劇 女の泣きどころ』など「喜劇」を冠されている。

しかし海外の作品で題名に「これはコメディです」と謳っている例も聞いたことがないし(「喜劇と格言劇」シリーズと銘打った名匠はいたが!)、そもそもなぜこうして「喜劇」と自らカテゴライズする題名が生まれたのか、そのルーツを探ってみると、どうやらその嚆矢は邦画最盛期の1958年の『駅前旅館』のようである。といっても実際の作品中に「喜劇」の文字はないのだが、ポスターなど宣材には「喜劇」が付けられていた。ヒットして3年後の『喜劇 駅前団地』以降シリーズ化されると『駅前』シリーズと聞いただけで誰もが「喜劇」と認識できたわけだが、『駅前旅館』という題名は今ひとつジャンルが見えないし、原作も『黒い雨』発表前夜の井伏鱒二であったので、宣伝部が作品のタイプをはっきりさせるために「喜劇」を付けたのだろう。

70年代まではこの不思議な「喜劇」という注釈もご愛嬌だったが、さすがに80年代になって『喜劇 家族同盟』という作品が出た時はさすがに古臭いなあと思ったのを覚えている。おそらくそのあたりで「喜劇」を表明する題名も見られなくなったはずだ。それから40年近くを経て、足立紳監督の新作に「喜劇」が付こうとは夢にも思わなかったが、もはや「喜劇」という言葉すら耳慣れないものになってしまった今、『喜劇 愛妻物語』というタイトルを目の当たりにすると、ちょっと新鮮ですらある。この題はインディペンデントの足立紳から森崎東や瀬川昌治といった撮影所出身の「喜劇」の先達に捧げたオマージュのようでもあり、作中に流れている音楽も、あのホームドラマの「重喜劇」の名作『阿修羅のごとく』に流れていたトルコの軍楽のへたうまトレースみたいな曲である。

『喜劇 愛妻物語』は、こうして目配せされた大いなる「喜劇」のヒストリーも尽きた果てに、日本映画の伝統も撮影所のカラーも断絶した痩せた土地で、はたして豊かな笑い溢れる映画など生み出せるものだろうかという模索と奮闘の記である。言わばそういうよるべなき立ち位置の、まるで甘やかされていない作家である足立紳が、どうすれば映画をかたちにできるのか、という自己言及がそのまま映画として進行する作品なのだ。ではなぜこんな困難で立派な営みが「喜劇」になり得るのか。それは誰もがかつての足立紳の投影とみなすであろう主人公の新進シナリオライター豪太(濱田岳)の努力や悩みや彷徨が、いちいち妻のチカ(水川あさみ)によってクールに「対象化」されていくからだ。したがって、背景の物語はシビアに切実に観る者を集中させつつ、人物たちの挙動はいたずらにおかしく解放的なのだ。

豪太は年甲斐もなく感情的で子どもじみていて、チカは常に徹底的に理性的なリアリストである。こうして豪太のタテマエ的には立派な創作行為を(夫をなんとか売り出したいという愛情が動機ではあるのだが)チカが辛辣に「対象化」して優位に立ち続けるところに「笑い」が発生する。これは「笑い」の根拠となる大原則で、そこをきっちり踏まえた本作は本当に観ていておかしみが絶えない。感情に走りがちな豪太の見栄や虚勢や情けなさを演じて、濱田岳が冴えまくる(濱田が大久保佳代子に性的なことをせがんで電話している時のどうしようもない表情など筆舌に尽くしがたいおかしさだが、そういえば大久保佳代子をセクシー要員として起用する足立監督の穿ったセンスにも感嘆した)。

そして目覚ましいのは水川あさみで、これだけつっけんどんで、性的な要素を拒絶しまくるほどに、妙に艶々と見えてくる。こんなやんちゃでサバサバした役なのに、水川あさみ史上最も色香があったのではないか(あまつさえラストはあんなことをしてしまうのに!)。それはきっとここまでサディスティックなくらい理性的にどついて来るカッコよさが、水川本来の色香を逆に引き立てたせいだと思うのだが、そんな一貫して夫を「対象化」してきた彼女がついに自分の世界に閉じこもった時に「怒り」が噴出し、それを今度は豪太が「対象化」するという反転現象が起こる。夫婦は結局こういう「対象化」のシーソーゲームで持っているのかなと思わせつつ、そこにおいて「喜劇」が「悲劇」に、そしてまた「喜劇」にという感情=映画の遊動性も鮮やかだ。

ところで足立自身による原作小説の題名『乳房に蚊』を映画題『愛妻物語』に変更する際、「喜劇」の二文字を冠さねばならない理由がもうひとつある。それは1955年の新藤兼人監督『愛妻物語』が存在するからで、しかもあの作品もまだ売れない脚本家とその妻(モデルは戦時中に亡くなった新藤の事実婚の妻)のけなげな日々を描いており、新藤自身が念願の監督をつとめて自らの脚本を映画化したものだった。あの脚本家の大先達のつましい清冽なメロドラマと同じ題材、同じ題名をいただきつつ、かかる不謹慎な内容とはなんと罰当たりなことか!しかし、できたら本当にこの新藤兼人の『愛妻物語』を観てから足立紳の『喜劇 愛妻物語』を観てほしい。両作は互いを「対象化」して、そのよさを引き立てあうはずだし、あなたはいっそうけたはずれの爆笑に見まわれることだろう。そういう意味で、本作は『愛妻物語』への最良の返歌に違いない。

そんなことを書いていたら、ふと私はこの夫を頼もしく牽引し開花させんとするチカのモデル、つまり足立紳監督の奥方に一度だけ会ったことがあるのを急に思い出した。それはよりによって、足立監督が『百円の恋』で日本アカデミー最優秀脚本賞を受賞した直後のパーティー会場でのことで、奥方は盛大に照れながらチカのような毒舌を披露し、しかしこみあげる嬉しさを隠しきれない様子であった。それは言わば『喜劇 愛妻物語』のラストシーンの後に来る、描かれなかったクライマックスに立ち合っていたわけで、本作を観た後でその時の奥方の姿を思い出すと、いよいよ脱帽あるのみである。そういえば新藤兼人『愛妻物語』でも、滝沢修の映画監督が脚本家の妻の乙羽信子に「男というものは女の支えがないとだめなもんです。力になってやんなさいね」と言っていた。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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