映画と世界の自由をアナーキーに希求して

闘病中から覚悟はしていたが、大林宣彦の不在が現実のものになると、その喪失感は大きい。もともと自由さがほとばしっていた大林作品だが、近年のデジタル化以降はいよいよアナーキーなまでに自由さを謳歌してみせていた。常識に縛られた瞳を動揺させるくらいに、ストーリーや演技のつながりから映画全体のバランスまで、「ほどよさ」を蹴散らしまくるような「過激きわまりない自由さ」が『花筐』や遺作『海辺の映画館 キネマの玉手箱』にみなぎっている。

戦時中は純粋な「愛国少年」だったという大林監督は、忖度と不自由に侵された現在に「戦前」を感じてこれらの「反戦映画」を創ったが、その「反戦」の意志を文学的テーマとしてではなく、フィルムそのものの極限的な自由さに仮託して突きつけてきた。人はどこまでも自由になれるのに、君たちがお互いを不自由に縛り合って、思考を硬直させているうちにとんでもないことになってしまうよ、それでもいいのかい、と警告と挑発をされているような気がした。

まさに晩年の大林宣彦は、映画と世界の自由を希求する、映像の魔術師ならぬ映像のアナキストであった。だが、程度の差こそあれ、大林は映画作家としての出発当初から、映画における作り手の「個」の「自由」が唯一最大のテーマだったのだ。日本映画界が絶頂期からおもむろに凋落しはじめた季節、1950年代末に大林は大学で知り合った恭子夫人ともども、8mmカメラで劇場用映画とはまるで異なる文法で「自分のための映画」を創り始めた。やがてヌーヴェル・ヴァーグが紹介された時、ゴダールの映画を観て、若き大林夫妻は驚きより先に「私たちと同じことをやっている人たちがいる!」と共感を覚えたという

そして大林は、既成の映画会社とは無縁のところで、いわば映画の「詩」ともいうべき実験映画をこつこつと作っていたのだが、1960年代半ば以降、折からの高度経済成長の活気のなかで、その才能は思わぬ方面に「招聘」されてゆく。それは業種として草創期にあったテレビコマーシャルのディレクターの仕事だったのだが、大林はコマーシャル・フィルムを自らの「ミニ映画」のように楽しみ尽した。当時の大林はコマーシャルで得た軍資金で16mmの個人映画『EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』を創り、この「アングラ映画」として話題になった作品と、家庭に流れるコマーシャルが、まるで同じタッチで等しく大林個人の「詩」であったのは驚きである。

70年代の日本映画の不振とマンネリ化を打破するために、CM界の売れっ子ディレクターだった大林は、今度はついに劇場用映画の監督として「招聘」されるのだが、この商業映画第一作『HOUSE』の驚きは、かつての8mm、16mmの個人映画でうたわれた「詩」がそのまま東宝のスクリーンで再現されていることだった。当時の映画館のスクリーンには、撮影所という映画工場で作った良質な規格品としての娯楽映画=商業映画のみが上映されるものだと思いこんでいたぼくらは、東宝の映画館のお盆興行にこんなハンドメイド感漂い異色きわまりない「異物」が殴りこんできたことに心底痺れた。そして、この『HOUSE』ショックを経験した映画少年たちは、自分たちも手づくりの映画であのスクリーンに跳んでいけるかもしれないと鼓舞され、”大林チルドレン”と称される次世代の優れた映画監督たちが輩出することとなった。

そしてゼロ年代のデジタル時代を迎えるや、大林は意外やフィルムへの郷愁に留まることなどなく、むしろ撮影も編集も大がかりなバジェットやインフラを要さずに自在に行えるデジタルの映画づくりを早くも自家薬籠中の物とし、往年の手づくりの16mm個人映画の時代の自由さと熱気に大いなる帰還を果たしたのだった。その大林の、完全にリミッターが振り切れた自由奔放ぶりは、観る者の思考の不自由さを撃つ域にまで達した。

大林監督といえば、口当たりのよい『時をかける少女』などの角川アイドル映画や『さびしんぼう』『ふたり』などの尾道三部作が代表作として観客に愛されているが、そういった穏健な商業作の糖衣に忍ばせた、大林の途方もないアナーキーさと作家的使命感に、今われわれは目を凝らすべきだろう。