樋口尚文の千夜千本 第124夜「僕はイエス様が嫌い」(奥山大史監督)
映画への信頼が呼び寄せた豊かなる恩寵
この作品を観て数か月になろうというのに、また一度きりしか観ていないのに、その鮮やかな印象が記憶から消えない。最近映画を観ていてこういう経験は稀である。後になってこれは撮影時まだ22歳の監督の手になるもので、いきなりサンセバスチャン国際映画祭で新人賞を獲ったことなどを知ったが(さらにまさかという感じの監督の横顔についても知ったがそれはあえて伏せておく)、それはもう当然なことだろうと思った。賢く才気ある監督や凄まじい努力や粘りを売る監督はしばしば見かけるが、この人は天才ではないかと思わせる例にはなかなか出会わないし、そういうオーバーな惹句みたいな讃辞は軽々に発したくない。が、このような作品を気負わず衒わず撮ってしまった奥山大史監督には、天才のけはいを感じた。
これはある繊細で孤独で寡黙な少年の、希望と試練の物語だ。二行くらいで書ける物語だが、映画は素晴らしく芳醇だ。少年の性格そのままに、映画も寡黙だが、その寡黙は映画への信頼に由来する。画と言葉での情況説明は大胆に省略されているが、そうして間口の広さを担保された映画からは優しさも悲しみも怒りも、名状しがたい虚無も、あらゆる感情が豊饒に湧き出してくる。奥山監督は少年のように神様は信じていないかもしれないが、映画表現には敬虔な信頼を捧げ、そのゆえの神々しく嬉しい映画の恩寵にあずかっている。映画を信じず、ショットをなさない映像をわんさとつなぎ、下卑た説明ゼリフと絶叫だらけの演技(なのか?)を野放しにしている昨今の商業作品には失神しそうだが、本作はそういう野蛮さとは真逆のサンクチュアリのようである。
それにしてもイエス様はなぜこんなかたちで降臨するのか。静かなせつなさが基調となる展開のなか、イエス様をめぐるほんのりとした諧謔がとても活きている。もしかしたら本作はラストカットから逆算されて生まれたのかもしれないが、そのかなめとなるイエス様の表現のヒューマーは本作をとても開放的にしている。主演の子役・佐藤結良のたたずまいはとても魅力的で、彼が試練の果てにイエス様に意思表明するアクション(この抜き差しならないアイディアがまた見事だ)は胸に刺さる。自然なニュアンスで脇を固める佐伯日菜子もとてもよかった。
こんな作品のよって来るところはビクトル・エリセか?いやもしかしたら奥山監督は全く映画を観ていないで、自然児的に思うがままを撮ったのでは?そんなさまざまな憶測に駆られるほど無地の豊かさを感じさせる本作だが、いずれにせよ2019年随一の収穫であることは間違いない。