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樋口尚文の千夜千本 第98夜「ブレードランナー2049」(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
(写真:Shutterstock/アフロ)

神経がちぎれぬ限りのグラマラスさで

 1982年7月3日公開の前作『ブレードランナー』は、今はなき1200席近い大劇場・松竹セントラルの大スクリーンで公開時に観た。といっても公開後すぐに飛びついたのではなく、宣伝から見えるのはちょっと古くさい感じのSF大作という印象でさして食指も動かず、むしろ同じワーナー配給でも本作に半月遅れて公開されたイーストウッドのスパイ活劇『ファイヤーフォックス』のほうが気になって、こちらはすぐに観に行ってけっこう満足した。そんな油断しきっていた私に、信頼を置くシネフィルの女の子が「何も言わないから『ブレードランナー』は観ておいたほうがいい」と力説されて、ロードショウも終わりかけの時分に滑り込んで観た。

 もちろん当時はビデオこそなくても、名画座で追尾捕捉する機会はいくらもあったわけだが、私は本作を松竹セントラルの大スクリーンで観られたことを幸運に思い、その友人に感謝した。松竹東急系にはセ・パ・ミ・チェーンという松竹セントラル+渋谷パンテオン+新宿ミラノ座という都下最大の収容人数を誇る劇場チェーンがあったのだが、そこで夏休みの目玉として『ブレードランナー』は公開されていた。確かに『エイリアン』の監督と『スター・ウォーズ』の主演俳優によるSF大作というふれこみだけを聞けば、この大型チェーンをあけての公開というのも不思議ではない。ところがガラ空きの劇場の大画面に映る「強力わかもと」の未来アドを観るや、この公開のしかたは何か間違っていると思った。それほどの驚くべき試みを、大スクリーンに紛れ込ませるというたくらみが、リドリー・スコットによってまんまと実践されていた(のが、大劇場だからこそ正確に感じられた)。

 私は驚きのあまり幾度か続けて『ブレードランナー』を観た(幸い当時は入れ替え制ではないから一日じゅう劇場にいてもよかった)のだが、骨子はひじょうにシンプルなハードボイルドだと理解する一方、やはりこの作品の何よりの魅力は、物語というよりも奔流のごときダークな美意識で構築された未来世界の表現だなと思った。そして近未来のデザインワークを手がけたシド・ミードの作品展示を見に行ったら、これが実に清潔で明るいことにとまどった。それではあの酸性雨が降りしきる暗澹たる未来都市のビジョンは、やはり演出の功績ということになるのかと、リドリー・スコットの「汚し」のセンスに再度敬意を表したのだった。その美学からすると、初公開時の説明的なデッカードのモノローグ多用やラストに二人が逃げる世界のとってつけたような森の緑(『シャイニング』の空撮みたいだなと思ったら本当にその流用だった)は、きっとスタジオ側からリサーチ版にさんざん「わかりやすく」「明るく」と要請された結果なのだろうな、というのも容易に想像がついた。

 さて『ブレードランナー』を観て「ひじょうに難解」という感想もあるのだが、それは細かく言えば「観る者しだいでひじょうに多岐な解釈ができるほどにシンプル」ということであって、反復していえば自分にはとても単純なハードボイルドに見えた。確かにこれをネタとしてさまざまに文学的な思考を披歴することも可能かもしれないが、その文学的な愉しみかたと、映画そのものの構造や質をめぐる議論は全く別次元のことだろう。ここは、かんじんなところだと思う。そういう意味では、『ブレードランナー』は排除と救済をめぐるシンプルな寓話をこれでもかという画期的な映像と音の洪水で肉付けした試みであり、その特異な表現の奔流のような語彙にこそ圧倒される作品だった。

 ただその表現の豊饒さが公開後35年を経てもまるで古びていないのは、膨大な画と音の語彙が、ごくシンプルなハードボイルド活劇としっかり神経接続しているからで、これが単にシーンの斬新さを粉飾するための意匠にとどまっていたら、今や古い風俗として褪色していたことだろう。最初に『ブレードランナー』を観た後、映像表現はあまりに豊饒だが、物語はあっけないほどだった。『ブレードランナー』の影響を理想的に反映した押井守監督のアニメ版『攻殻機動隊』を観た後も、それにかなり近い感想を持った。だが、このくらいの単純な物語だからこそ、あの洪水のごとき表現と無理なき神経接続が可能になるのである。言葉をかえれば、それは物語が入り組んで抽象性を帯びた瞬間に、この画と音の奔流が、接続の切れたただのお飾りになってしまうことを監督が知っている、ということだ(例外的にユニコンの夢が隠喩的に挿入されるところもあるが、結末のガフのオリガミによってごくごく具体的に回収される)。そして特に『ブレードランナー』にあっては、その抽象性の排除が奇しくも物語のハードボイルド的世界の求めるものと合致しているのだった。

 これは先立つ『デュエリスト』も『エイリアン』も然りで、常に監督はそれぞれの世界観にふさわしい豊富な映像の語彙を注ぎこむが、そこで描かれていることは常に単純であり、乱暴さよりわかりやすさが優先される。鮮烈な映像作家と思われがちなリドリー・スコットだが、この点については本当に無理をしていない。やんちゃなふりして映画の身のほど、映画の容量というものを過度にわきまえているオトナの職人、と言っても言い過ぎではないだろう。それゆえに『ブレードランナー』はあらかじめ古典であったから、サイバーパンクという流行語にようには古びないのである。

 こうしてえんえんと旧作の『ブレードランナー』にふれてきたのは、語彙のレベルでは周到に違いを出そうと腐心している『ブレードランナー2049』のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が、この映画の器と中身の比率については極めて率直に前作のリドリー・スコットをトレースしている気がしたからだ。したがって、今回も新旧のブレードランナーが絡む物語は(前作よりいくらかひねりはあるが)ごく単線的で、文学性は一蹴され、そこへ向けて圧倒的な画と音の世界観が盛り込まれる。内に籠もればキューブリック、外へ出ればタルコフスキーみたいな意匠の数々が、リドリー・スコットの器に盛られているような、そんな作品である。

 「語り口」の人であるドゥニ・ヴィルヌーヴの関心事は、何よりこの「器」の部分なのだ。『灼熱の魂』も『プリズナーズ』も『複製された男』も『ボーダーライン』も『メッセージ』も、とにかくそれぞれの物語にふさわしい映画の容量を厳格に決め、そこをはみ出さない範疇でめいっぱい映像の語彙を詰め込んできた。事ほどさように『ブレードランナー2049』の物語に関しては、あまりにもシンプルなので何を言っても鑑賞の妨げになりそうだから言及を避けるが、全篇を繊細かつスマートに埋め尽くす映像と音とデザインは圧巻で、いったいどうやったらこんなセンスのよさを限られた予算と日数のなかであまたのスタッフに伝達し、実現できるのだろうかという素朴な疑問を禁じ得ない。

 前作のオリガミのユニコンが木製の馬に変わって語られる非情な逸話を筆頭に、いよいよニヒルさを増して乾いたハードボイルドを職人的な節度をもって描きながら、そこにおびただしいデジタル/アナログ技術を動員して目覚ましい世界観を付与していくドゥニ・ヴィルヌーヴの情熱は、ちょっとただならないものがある。老デッカードが若いバウンティ・ハンターのKに言う。”そして、いったい君は何のために?”。これと同じ台詞を、思わず驚嘆のため息をつきながら、ドゥニ・ヴィルヌーヴに捧げたくなった。

 余談だが、前作でいつもデッカードを召集しに来るロス市警の警官ガフをキメキメで演じたエドワード・ジェームズ・オルモスは、『ブレードランナー』の前は角川映画『白昼の死角』の公使秘書や『復活の日』のロペス大尉を演じ、後に米国公開版『風の谷のナウシカ』でナウシカの忠臣ミトの吹き替えを担当した異色の俳優だが、今回もゲスト出演していたのは嬉しかった。そしてイーライ・ロス監督『ノック・ノック』ではすっぱなカワイコちゃんを演じていたアナ・デ・アルマスの人間人形ぶりも、監督の偏愛を感じつつひじょうにいいキャスティングだった。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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