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樋口尚文の千夜千本 第90夜「乱〈4Kデジタルリマスター版〉」(黒澤明監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
仲代達矢と野上照代(撮影=樋口尚文)。

イノセンスと蕩尽の巨大な絵本

昨年『七人の侍』4Kデジタルリマスター版の披露試写の時に、黒澤組ゆかりのプロダクション・マネージャー野上照代さんが、リマスターの意義は映像だけでなく音声の修復にもあって、「これで三船敏郎は早口のくせに活舌が悪くて何を言っているのかわからないという長年の不名誉が挽回された」とおっしゃっていたが、まさにその通りで『七人の侍』の馬車馬のように急いてしゃべる三船が何をまくしたてているのか、全部ちゃんと聞こえたのは驚きだった。その約三十年後、80年代も半ばに公開された『乱』ともなると、さすがにリマスター版を観てもそういう根本的な驚きはないのだけれども、まだ当時出来たばかりの有楽町マリオンの日劇東宝で公開直後に観た時の印象が鮮やかに蘇った。

とにかく70年代半ばにモス・フィルムで『デルス・ウザーラ』を撮った後あたりから、黒澤明には『乱』という「リア王」を底にひいた畢生の企画があるらしい、という噂は出回っていて、80年公開の『影武者』も当時の邦画のスケールから言えば超大型であったわけだが、それとて黒澤としては来るべき『乱』に向けての習作的な側面が強いらしい、ではいったい『乱』とはどんな作品なのだ・・・と期待は膨れ上がるばかりだった。そのせいか、公開当時の観客の『乱』への評価は思ったより盛り上がらなかった気がする。

この1985年6月公開の『乱』の前後の公開作といえば、相米慎二『台風クラブ』、森田芳光『それから』、大林宣彦『さびしんぼう』、柳町光男『火まつり』といった脂ののった異才たちの野心作ばかりで、そんななか『乱』はずばぬけて大型の重厚なる作品だった。私は(ちょうど『乱』がオープニング作品であった第一回東京国際映画祭にぶつけて最初の映画評論の本を刊行した記憶があって)まさに評論家デビューしたばかりだったが、そんな若輩の私には『乱』はいたずらに重くアクチュアルさのない映画であった。特に冒頭から三の城攻めの前まではかなり眠く退屈であった。実際、まわりの観客の多くにそんな雰囲気が見てとれた。

その理由は明白で、私を含むそれまでの黒澤映画のファンが黒澤に期待するのは、やはりあの映画全体を貫く大文字、小文字の活劇的演出であった。しかし『乱』は、往年の黒澤映画を彷彿とさせる細部はあるものの、かつてのような映像のダイナミズムはすっかり退潮していた(唯一、次郎(根津甚八)と楓の方(原田美枝子)の『蜘蛛巣城』的な駆け引きの部分はかつてのような作劇の切れ味が光る)。スケールの大きな、手のこんだ合戦シーンも随所にあるが、そこで目指されるのは活劇の高揚ではなく一幅の画の美しさであった。そういう傾向が著しくなったのは、黒澤があの壮麗な色彩のコンテ画を描きはじめた時期に符合する気がしてならない。そもそもあの凝ったコンテ画はどういう経緯で描かれ始めたのかというと、映画界が黒澤の追求する大がかりな作品を製作する体力を失い、『影武者』や『乱』などの作品はひじょうに実現が難しい企画であったので、せめて完成図が想像できるような細密な画として遺しておこうという趣旨であったという。そうでなければ、あんなそのまま画集として編めるような画をわざわざ描いたりはしないだろう。

しかしこれを機に、黒澤は遺作『まあだだよ』まで毎回このレベルのコンテ画を描き続けることになるのだが、私はある仕事のために黒澤プロからこの直筆の原画をたくさん預かったことがあって、自宅のデスクにこれらを並べて細部までなめるように眺めるという贅沢な経験をさせてもらった。さまざまな画材と筆、時には自分の指もじかに使って、まるで子どものような熱中ぶりで描かれたコンテ画群は時としてゴッホのようであり、時としてシャガールのようであったが、巨匠監督にここまでの画を描かれてしまうとスタッフは(画面の構図から色調まで指針となって作業の便宜上ひじょうにありがたいのだが)どうしてもこの「画」の再現を目指してしまうだろう。晩年の黒澤映画に共通するのは、あのかつての才気に満ちた歯切れのいいコンティニュイティの追求よりも一枚一枚の「画」の悲愴な美しさを、監督とスタッフ、キャストが一丸となって積み上げてゆく姿勢である。

そういう意味で、とりわけ『乱』や『夢』などを観ている時の気分は豪奢な童話の絵本をめくるようである。『姿三四郎』から『天国と地獄』あたりまではモーション・ピクチャーの「モーション」のほうを大胆に試行してきた黒澤が、初カラー作品の『どですかでん』あたりから後半の「ピクチャー」のほうに執心するようになった。大胆さ、速度、切れ味という黒澤映画の特徴たるエレメントは、重厚さ、停滞感、そして工芸品的な美しさにすりかわった。だがしかし、である。この重たく、時に退屈で、けれどたぐいまれな美しさに満ちた絵本である『乱』が、同時に作家の老いと変節をさらけ出して特異なる感動をいざなうことも事実なのである。さすがにそんなことは若い時には気づかなかったが、五年に一度くらい観なおして、このたび三十余年ぶりに大スクリーンで4K版にふれて、その思いはいっそう強くなった。

教訓がしっかりわかりやすく述べてあるところもまさに童話の絵本のようで、劇中では放浪する秀虎(仲代達矢)を救い、最後の希望を託されていた三郎(隆大介)までもが射殺され、狂阿彌(ピーター)が神仏への呪詛を叫ぶや三郎にずっと付いてきた重臣(油井昌由樹)が悲嘆に暮れながら人間の根深い業を説く。実はこの重臣は冒頭の秀虎の乱心の部分と、この結末の部分の長台詞で、ほとんどこの映画の主題を語りきってしまう。当初のシナリオを読むと、そこまでの説明的な台詞はなく、まだしも画の展開で言外に語る感じなのだが、最終的に黒澤はこの噛んで含めるような台詞を足していった。だが、このここまで言うかという感じの重臣の台詞や、刻々と陽光の変化をとらえた、神仏の視点のような象徴カット(かつての黒澤ならこういう抽象性は排除して切ったことだろう)さえもが、不思議な感動を呼ぶ。

要は、これはメッセージの映画、それもごく単純で子どもじみた正義感に満ちたメッセージを、驚嘆すべきスケールの絵本として撮った映画なのであって、撮影時70代半ばの黒澤としてはきっと映画的な面白さや技巧よりも、その信じがたいほどシンプルな伝言のほうが大切で、とにかくなりふり構わずそれを教訓の絵解きとして「発言」したかったのだろう。そして奇しくもその重臣が言葉で語りきってしまうメッセージは、微温湯的な政治体制と均質の豊かさに特徴づけられる80年代半ばの公開時よりも、世紀をまたいで世界情勢への不安みなぎる現在のほうがより胸に刺さるものとなっている。

そういう意味では『乱』の絵本性がずばり徹底された『夢』という教訓童話にあっては、ずばり原発事故を予言する「赤富士」の挿話が印象的だったが、公開時の1990年には誰もが原発の安全神話を妄信していたから、この衝撃的な「赤富士」の部分もそんなに共感を呼ばなかったはずだ。だが、現在そこを観なおすと、『乱』の戦争への痛覚ともども、あの誰もが天真爛漫に過ごしていたバブル期に、なぜ黒澤は孤独にこんなことを心配し、不安にさいなまれていたのか、そのことに驚きを禁じ得ない。あの未来への危機意識と慎みを忘れた時代に、黒澤はひとり子どものように心もとない気持ちでうち震えていたのだった。

今回の新版『乱』を観なおした仲代達矢さんが、「この映画は日本では無常観を描いた芸術作品として観られていると思うけど、アメリカに持って行くとみんな反戦映画として観てるんだよね」と仰っていたのが象徴的だ(『影武者』『乱』の頃の仲代さんはいつも力んで目をむいた演技を求められて文字通り頑固老人のようだったが、現在の80代も半ばの仲代さんはどんどん軽妙で若々しくなって行かれるので驚嘆あるのみだ)。『乱』をめぐる感動は、この素朴な反戦のメッセージになりふり構わず執着する黒澤明のイノセンスと、その映画というより絵本に対して費やされた夥しい人馬、セットなどの蕩尽ぶりのギャップに由来するような気がする。あらゆる意味でこれは黒澤明以外の誰もが作れない作品なのだ。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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