樋口尚文の千夜千本 第57夜「大地を受け継ぐ」(井上淳一監督)
ドキュメンタリーがニュースやプロパガンダを超えるとき
ドキュメンタリー映像とニュース映像の違いは何であろうかと考える。もちろんテレビドキュメンタリー番組の多くはニュース番組の一コーナーの拡大版のような域のものも少なくない。だが、たとえば小川紳介や土本典明や大島渚のようなすぐれたドキュメンタリストによるドキュメンタリー作品は、明らかにニュース番組の延長上にはない。だが、無自覚な作り手にかかるとドキュメンタリーはニュースにも及ばぬプロパガンダ映像に堕してしまう。
取材対象を単純に割り切り、それを盲目的に賛美したり否定したりするのがプロパガンダ映像だとすれば、ニュース映像はそこをなるべく客観的、中立的なまなざしで「情報」として伝えようとするものだろう。ただしいかに客観的であろうと「情報」の枠におさまる以上、そこで伝えられるものは取材対象の「要約」におさまるに違いない。そして優れたドキュメンタリーは、厳格に中立的でありつつ、対象のあるがままのありようを「要約」ではなくじっくり余すところなくふれて行こうとするものだろう。
『戦争と一人の女』『あいときぼうのまち』などの社会派的作品を精力的に送り出してきた井上淳一監督が、福島第一原発から65kmのところで農業を営み続ける男性に刮目する。男性の父は原発事故の直後に農作物の出荷停止という事態に見まわれ、失意のうちに自殺を遂げる。息子に農業を継がせた自分が間違いであったという父の無念の言葉が、男性に強烈にとりついた。それだけに、男性は易々とこの父や祖先がこだわって守ってきた田畑を捨てるという気持ちにはなれず、汚染された土地での農業をたゆみなく継続する。その過程で、男性は被害の補償をめぐる不条理や作物に対する市場の覆しがたい偏見と対峙することとなり、たとえようもない怒りに駆られる。
本作の大部分は、この男性の問わず語りの主張によって占められる。何の落ち度もなかった男性が、原発事故以降、とめどもなく押し寄せてくる不条理に直面し、それを相当理性的に語りながらも、どうしても峻烈な怒りと悲しみを抑えることができない。男性の説得力に満ちた主張と告白を、カメラはひたすら真っ向から見つめ続ける。もしもこの映像がまんま現在のテレビで流れたらどうなるのだろう、と思った。よもやそれだけで「停波」級の「偏向報道」だとか言われてしまうのだろうか。確かにこれだけのボリュームをもって、特定個人の主張に耳を傾けるという機会が、今どきのテレビメディアには見出し難いことだろう。だが、こうして男性の表情と語りを一時間以上も目のあたりにしていると、ニュース映像の「要約」からは見えてこないさまざまなものを感受できるのは確かである。
そしてわれわれは「要約」程度ではそれが「偏向」であるかどうかを判じ難いので、「放送禁止・自粛」「削除」「停波」といったとかく「見せない」方向で対処しようとする動きに対して、とにかくありのままを見る権利を主張行使すべきだろう。結果、それが「偏向」なのか否かという判断は、大衆に委ねられるべきであって事前に規制されるべきではない。まさに私もこの男性の表情と言葉をここまで見て聞いて初めて、原発事故から五年も経つのに漸く気づかされることが多かった。これはとにかくしっかり見てみないと判らないことなのだ。まずはあるがままを見たいし、見せてほしいと思う。
『大地を受け継ぐ』の意義はまず、おそらく今どきのテレビメディアでは出会うことができないであろう、この原発被害にあった男性の告白、主張をそっくりとらえてみせたことである訳だが、今ひとつ好ましかったのは、これほどごもっともな説得力、痛覚、怒りに満ちた男性の言葉を、しかし無防備に同調支援してもいないということだ。井上監督は、この厳然たる語りを、ごろんとそのまま提示するにとどめつつ、さらに十代から二十代にかけてのごく普通の若者たちを男性の聞き手として同道するという一拍を施した。これは何気なくも重要な思いつきだ。おそらく原発問題にもごく普通には関心を抱いているが、実態をよくよく知っている訳でもない、このごく平均的で素直そうな若者たちの人選がよく、彼らは虚心に男性の語りに耳をそばだてる。
真摯な男性の語りのところどころに、この若者たちの表情がインサートされる。未知なる不条理に驚き、とまどい、涙したりする素朴な顔がそこにある。彼らは極めて冷静に理性的に、真実に耳を澄まそうとしている。そんな若者たちは、実は『大地を受け継ぐ』のもうひとりの主役なのである。すなわち、この作品で重要なのは、男性の主張のみを(いかにそれが正当な疑問や主張に溢れていようと)煽って広めることではない。その投げかけられた主張をまるごと受け止め、考えてみるという営為が何より重要なのだと本作は実践的に主張する。
中村真夕監督のやはり原発事故をめぐる秀作ドキュメンタリー『ナオトひとりっきり』も避難地域に残された動物たちとともに暮らし続ける男性を追いかけながら、彼を要約または美化することは避け、彼の人間としての風変りな部分までも含めた全体像をまんま描きとろうとしていたが、『大地を受け継ぐ』もまずは男性の告白をその表情の細部までも含めながらそっくり見つめながら、そのことは冷静に対象化され、いつしかわれわれの関心はこのありのままを若者たちがどう受け止めるのだろうという方向に転じてゆく。
結果、衒いなき若者たちが、余りの言葉の重量にどうしていいか判らなくなっているさま、少しずつ何かを考えようとし始めているさまがそのまま点描され、彼らはとにかく何かを抱えたままバスで東京に帰還し、解散する。はたして彼らが男性の言葉にいかなる判断をくだすのかは、彼らに預けられ、同時に彼らにシンクロしたわれわれ観客にも委ねられたという訳である。こうした男性と若者たちの関係性をもって、本作は男性の主張をめぐるプロパガンダでもニュースでもなく、そこからさまざまなものを受け止め、考えてみよという優れたドキュメンタリーの特権たる境地に達している。