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樋口尚文の千夜千本 第53夜 【追悼】原節子

樋口尚文映画評論家、映画監督。
「東京物語」ロケで逗留中の尾道の旅館・竹村家に遺る小津安二郎と原節子の署名。

原節子を輝かせたものは何であったのか

ゼロ年代に入ってからの鎌倉での出来事だが、私のそばで往年の撮影所のスター女優だった方が携帯電話でどなたかと話していて、後でその相手が原節子であることを知って慄然とした。ああ、原節子はこの時代にも健在なのか。それだけでも不思議なのに、原節子が携帯電話に出ているなんて、まるで現実感がなかった。

1963年の暮れの小津安二郎の逝去とともに、まだ四十二歳の原節子は女優業を引退し、世間から一切姿を消してしまった。それ以来、本人が徹底して取材を拒んだこともあって、われわれはとにかく遺された映画群のなかでしか彼女と出会うことはできなくなった。原節子は永遠の過去となったとも言えるが、映画研究者や映画ファンにとっては永遠の現在となったとも言えるだろう。それはもちろんこの人がまだ存命だという意識があるがゆえのことかもしれないが、私にとって原節子は彼女より数か月だけ先に106歳で天上に発ったマノエル・ド・オリヴェイラのように、ずっとアクチュアルな存在であった(もっとも原節子もオリヴェイラも、現在の映画界の状況とはかなり隔たったところで美徳を守り続ける「別格」の存在ではあった)。それゆえ、私は原節子の他界の報せをオリヴェイラのそれと同様の感覚をもって受け止めることになった。不思議と、あの懐かしい原節子が逝ってしまったというような印象は全くなかった。それは案外、私以外の多くの観客にとってもそうではなかったかと思うのだが。

さて、大正9年、1920年に横浜の会社員の家庭に七人きょうだいの末っ子として生まれた原節子だが、これはあのドイツ表現主義の傑作『カリガリ博士』が作られた年でもある。映画というまだ若い表現は、すでに相当な技術的成熟と商業的な人気を手に入れていた。後には慎み深いドメスティックな女性像を求められ続けた原だが、その持ち味はおよそ日本人的ではない派手な美貌と長身にあった。姉の夫が映画監督・熊谷久虎であったことがきっかけとなって、15歳にして日活多摩川撮影所に迎えられた少女・会田昌江は、初めて出演した映画『ためらふ勿れ若人よ』の役名「節子」からとって「原節子」の芸名を与えられる。

早世した天才・山中貞雄監督の意欲作『河内山宗俊』に登場した原節子は、彫りが深く目鼻立ちもくっきりした美少女アイドルのような可憐さで、瞬く間に評判を集めた。そんな彼女は、日独合作映画『新しき土』を監督すべく来日していたアーノルド・ファンクと一緒に撮影所で記念写真を撮ったのがきっかけで見初められ、実にこの映画のヒロインに抜擢される。恋に絶望して火口へ身を投げんとする彼女の姿はドイツ映画の若手女優さながらであった。このドイツ題名が『侍の娘』である合作映画のベルリン公開に招聘された原は振袖姿で大人気を博し、あのゲッペルスに歓待され、その洋行の途上でマレーネ・ディートリッヒにも会っている。

こうした彼女の初期のイメージ、邦画女優の枠を超えた活躍ぶりを見ていると、戦後に黒澤明が渾身で演出し、不評にまみれたドストエフスキー原作の『白痴』でナスターシャを翻案した那須妙子という強烈な個性をシアトリカルな大ぶりな演技で受けて立った原節子のことを思い出す。あの映画も、あの役柄も、当時の敗戦後の貧しき時代の感覚からは浮きまくっていたかもしれないし、同時代の評価に恵まれないのもしかたがなかったかもしれない。そういうことは大衆的な興行から切り離せない映画史にはつきものである。しかし、こうして遂に原節子が鬼籍に入ってもなお、しかも原節子とその作品を研究し偏愛する論者ですら、『白痴』の原節子はひどかった、本人の持てるものをまるで活かしていないから「大根」に見えた、と斬り捨ててはばからないのは、あまりに定説、俗論を疑わない退屈さを感ずるだけでなく、いささか乱暴にも聞こえてしまうのである。

帰国して東宝の前身J・Oに入社した原は、やがて『ハワイ・マレー沖海戦』『望楼の決死隊』などの国策映画に動員され、戦意高揚を図る大和撫子を演じさせられる。しかし大衆は貧しく苦しい時代に(戦意高揚の建前はともかく)原節子のバタ臭いしゃれた表情にこそ救われていたことだろう。本来の原節子には、そんな楚々と耐える女など似合わないのである。実際、終戦の翌年には、原は一気に強烈な意志をもって反戦に生きる女性像に転じた。黒澤明監督『わが青春に悔なし』の原は、思想を曲げず農村で土にまみれる意志のかたまりのようなヒロインを受けて立っていた。

この原節子の力演には、その直前までの国策映画に甘んじていたことへの自己批判の意味もあったことだろうが、しかしこの日本人離れした主人公は今観ると原節子本来の持ち味への帰還と思われてならない。そしてこの路線の決定版が、続く黒澤明『白痴』でのナスターシャ役だった訳だが、この特異な存在感を発散させる苦悩のヒロインは、合作大作『新しき土』のほか戦時中『レ・ミゼラブル』をもとにした伊丹万作監督『巨人伝』などさまざまな翻案物に起用されていた原節子でなければ、到底ここまで演じきれない役柄であったはずである。もちろん映画会社の意向で大幅にカットされた『白痴』を大傑作とむやみに再評価する訳ではないが、この作品における原節子の魅力が彼女本来のものからかけ離れたものだと断定する俗説はそろそろ修正されてもいいだろう。

これらの黒澤作品は極端な例として、戦後はこの原の天性の屈託のなさや主張の強さが、進歩的な女性像として歓迎され、吉村公三郎監督『安城家の舞踏会』における意志的で強い女性像や今井正監督『青い山脈』のりりしく知的な女教師などに起用され、こちらは広く喝采を浴びた。だが、いかんせん原節子にとってこういう役柄は逆にあまりにも普通にはまり過ぎて、彼女が「大根」扱いされる端緒ともなった。その美しさゆえに、彼女は人間臭い感情表現に乏しいとする声もあり、女優としては難しい時期にさしかかっていた。そこで大いにひねりをきかせて、原本来の明晰さや明るさ、ゴージャスさを「封印」するかたちで逆に引き立て続けたのが、小津安二郎であった。

1949年の『晩春』の前半、笠智衆扮する大学教授の父との穏やかな日常のなかで満ち足りた娘役の原の表情はとてつもなく明るく弾けているハイカラな感じだ。が、印象深い能舞台の場面をきっかっけに、後半は一転父の再婚にまつわる落胆と諦めの表情からついに解放されることがない。彼女はあの本来の途方もない明朗さから、どこか夜叉のような憤懣を押し殺した表情に転ずる。原節子というスケール感のある派手で美しい女優が演るからこそ、この落差はひじょうに激しい。小津は言わず語らずして永遠の「娘」であった原節子がけわしい「女」になった瞬間を見事にとらえてみせた。後年は原節子のことを貞淑で慎ましい日本女性のイメージで「総括」する傾向が強いが、原節子はあらかじめ貞淑であろうとしたのではなく、主に小津という師によってそれをまとわされた存在であった。その自由さ、奔放さの「封印」は日本規格を逸脱した美貌と明るさを身上とする原節子だからこそ面白さが引き立つのだった。

この『晩春』を皮切りに小津『麦秋』の原は婚期を逃したOL、『東京物語』『秋日和』や成瀬巳喜男『娘・妻・母』ではしみじみとした未亡人、小津『東京暮色』や成瀬『めし』『山の音』『驟雨』では不幸な結婚生活に縛られた人妻・・・といったやや薄幸な役どころが板につくようになった。一方、エキゾチックな原節子の容貌ゆえに、こうして日本的な「耐え忍ぶ」貞淑さをまとわせても、どこか虚構的で泥臭さがなく、映画が華を失うこともなかった。このあくどくないほどよさが、絶妙に小津好み、または成瀬好みではなかったかと推察する。

晩年中流層をドライに描くことを好んだ小津とは対照的に、成瀬巳喜男は些細でこまごまとした生活感情渦巻く下町世界をしばしば舞台にしたが、成瀬はそういったメロドラマやホームドラマを実に澄みきった視線で描きあげた。そして、『めし』『山の音』という傑作を生んだ原節子という存在は、その成瀬の虚構的な涼しさを一段と際立たせるアイコンなのであった。

しかし、こうして作品内でほとばしる思いや主張を「封印」され続けた原節子が、最も深い精神的影響を受けたであろう小津の逝去によって、現実にあってもその気持ちの奔流を封ずるほかなかったというのは、なんたる符合であろうか。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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