樋口尚文の千夜千本 第52夜「ピンクとグレー」(行定勲監督)
愛の謎、謎の映画
映画評を書く時に、しばしばネタバレというのが問題になる。先日も某新聞が話題の新作映画の物語に関して詳述したら、ネットでコテンパンになっていた。確かにかつて映画の惹句に「この結末は誰にも言わないでください」的なものがよくあったが、以前ならがまんしきれなくなってその結末を誰かに吹聴したくなっても、酒席で語るくらいのことしかできなかった訳で、現在のようにどこの誰だってスマホのキーを押すだけで全世界に内緒ごとを開示できるようになってしまうと、そもそもは煽りにすぎなかった「誰にも言わないでください」のコピーも今や作り手や映画会社にとっては思いきり切実な響きを伴うのであった。
ただ、こういう事を言うと叱られるかもしれないが、私自身はネタバレになるかどうかなどということにそんなに頓着していないし、誰かにネタバレじみた事を聞かされて陳謝されても、そんなのは謝ることではないよと言ってしまう。なぜかといえば、たとえばミステリー映画で誰が犯人であるのか事前に聞かされたとして、それでつまらなくなるような映画はそもそも大したことはないのである。そういうのは一度読んだらポイする三文ミステリーみたいなもので、本当に面白い映画は犯人やトリックを一度知ってしまったとしても、また観たくなってしまうはずなのだ。『オリエント急行殺人事件』や『スティング』のような、意外性やどんでん返しを売っていた映画を、その結末を知っていても何度も観てしまうお客がいるというのは、そこに「芸」があるからであって、こういう作品はネタバレで朽ちることはないのである。客が展開を熟知している古典落語を、幾度も堪能してしまうのと同じことだ。
さてお題の映画『ピンクとグレー』にも、ある作劇構成上のヒミツがあって、しかもこの映画は一度観てそのヒミツを知ってもじゅうぶんに再見に耐える「芸」のある映画なのだ。・・・が、そういう訳で映画のネタバレにヒステリックになるなんてちゃんちゃらおかしい、いい映画の「芸」はネタバレなんかで動じるものじゃないし、それで興味が失せる映画なんてそもそも取るに足らないものだよと固く信じている私ですら、まあなるべくなら『ピンクとグレー』のヒミツは初見の方にはなるべく内緒にしておきたいという気持ちに駆られるであった(そうするとこうして内容に踏み込んだ作品評を書くこと自体が至難になっていよいよやっかいでもあるのだが)。
それは『ピンクとグレー』におけるヒミツというのが、何かお客が反り繰り返るようなことではなく、それ自体は物語の転調のきっかけに過ぎないからなのである。惹句では「幕開けから62分後の衝撃!」とそこをセンセーショナルな売りにしているが、実はそのヒミツ自体はそこまで「衝撃」でもないし、それを知ること自体で即きわだった驚きや感動が誘発されるものでもない。むしろ本作の魅力は、その惹句にいわゆる「62分後」を境にある変貌を遂げるこの物語に、結末までじわじわと芽生えてゆく感情の数々のほうなのだ。それゆえに、厳密にいえば私は本作のヒミツを隠しておきたいのではなく、それを事前にヒミツとしてオオゴトにしたくないという訳である(宣伝とは逆なのだが)。要は、この作品ではヒミツはあるきっかけではあるが主役ではなく、目を凝らすべきはそれ以後の人物たちの思索と感情のさざなみのほうであろう。
この「62分後」を起点に、われわれは人が人を演ずることの底知れなさについて、重層的かつ実践的に考えさせられる。それは、今目のあたりにしている人間が信じられるのか、それを判った気になっていていいのか、いや畢竟他者を理解することなんてできるのか、という終わりなき疑いや迷いの物語であり、ある劇中の女優が演技論の範疇で言うように「誰がどうやって決めるわけ?これが本当の私って。監督?客?自分だってよくわかんないのに」と答えは宙吊られるばかりで、ある男優が語るように「お互いわかりあうなんてことはない」ということなのかもしれない。そこまで突き詰めた後に、人物たちが「でも、それでいい」ととったアクションはごくごくシンプルなことであって、本作はその一点のかけがえのない(素朴な)思いに向けての壮大なる旋回を終える。
そして本作がひじょうに映画として興味深いのは、その「あの男」「あの女」はいったいどういう人間なのかというドラマ上の問いが、今われわれが観ているこの人物やこの風景、この世界は、嘘かまことか、いったい何なのかという映画の審級をめぐる本質的な解かれ得ぬ謎とリンクしているということである。『ピンクとグレー』は、恋愛映画の名手とうたわれる行定勲監督の恋愛論、人間論でありつつ、実践的な映画論が同時に進行しているというたくらみがひじょうに面白い。しかしまさか原作自体にこんなたくらみが仕込まれていたのだろうかと試写後に疑問を覚えた私は、そこを行定監督に伺ったら、これは映画独特の「詭計」であるというので、その思いつきは凄いなと思った。本作は行定版『Wの悲劇』だったという訳である!