樋口尚文の千夜千本 第49夜「FOUJITA」(小栗康平監督)
痛快なまでに頑なな超俗の美
『FOUJITA』の場合、あえて劇中で藤田嗣治の絵画そのものに密着することは避けられているが、絵画作品や創作過程そのものに接近していった作品といえばジャック・リヴェットの『美しき諍い女』という別格の境地にある傑作があり、ほかにもたとえば泰西名画の光と色彩を活人画として再生しようと試みるゴダールの『パッション』やゴッホの画が好きすぎてハイビジョン合成で嬉々とそのまま再現しまくる黒澤明『夢』なども思い浮かぶ。それらが絵画の映画だとすれば、『FOUJITA』は「画家の映画」ではあっても絵画の映画ではないかもしれない。
画家をモチーフにした映画というのは思いのほかたくさんあって、ちょっと試みに挙げてみても『赤い風車』『炎の人ゴッホ』『華麗なる激情』『モンパルナスの灯』といったものから『クリムト』『真珠の耳飾りの少女』『アルテミシア』『カラヴァッジョ~天才画家の光と影~』『宮廷画家ゴヤは見た』『フリーダ』『モディリアーニ真実の愛』『愛の悪魔フランシス・ベイコンの歪んだ肖像』『バスキア』などなど枚挙にいとまなしである。邦画でも『地獄変』『写楽』『北斎漫画』『夢二』から『百日紅』までさまざまであるが、実はけっこう退屈な作品が多い。比較的面白かったのはタルコフスキー『アンドレイ・ルブリョフ』、アルトマン『ゴッホ』、グリーナウェイ『レンブラントの夜警』、ゲオルギー・シェンゲラーヤ『ピロスマニ』といったごく一部の癖のある作品だけだ。
画家をめぐる映画が大抵つまらないのは、だいたいの場合、画家の(しばしば社会の規範や通念を逸脱して狂人的であったりする)生涯を物語として描くことに終始してしまうからだろう。これは画家に限らず、その主人公が小説家であろうが医者であろうが教師であろうが変わらない映画のトラップなのだろうが。なぜストイックな小栗康平監督が(なんとなく余り好きとは思えない)藤田嗣治というモチーフをとりあげたのかということをご本人に尋ねてみたら、これはそもそもは持ち込まれた企画で、しかも当初は「おっちょこちょいの青年がパリに渡って大成功するというつまらない物語だった」のだそうで、さすがに案の定のことゆえ爆笑した。なぜか画家映画はそういう立志伝的な挿話づくしになってゆくのであり、あまつさえ藤田嗣治はあのオカッパにロイド眼鏡でモンパルナスでは”FouFou"と呼ばれていたのだから、そういう珍妙なる東洋人の面白おかしいサクセスストーリーをでっちあげるには恰好の存在だ。
だが、出来上がった映画『FOUJITA』はそんな画家映画の通俗への不満を痛快なまでに蹴散らした稀有な作品であった。ここで小栗康平は、藤田嗣治の生涯をふたつの時期でぶった切って、そこに露わになった断層の露頭をじっと眺めるかのようである。ひとつは1920年代のパリ、裸婦とネコが象徴する藤田の解き放たれた時代。モデルのキキや恋人たち、そしてピカソ、モディリアーニからスーチン、キスリングまでさまざまな突出した作家たちとの交流のなか、藤田は浮世絵のアダプテーションで描いた裸婦で時の人となる。しかしこういうエコール・ド・パリの雰囲気を再現するにあたって、小栗監督は『ミッドナイト・イン・パリ』に出てくるダリみたいな面白おかしい誇張や戯画化を施すわけではない。
それどころか常に特定者を際立たせず、引きのサイズに徹して「場」を描くばかりである。したがって、実際には誰がピカソで誰がキスリングかなどということは全く重要ではなく、とにかく藤田嗣治(オダギリジョーがほどよく力まず好演)と作家やモデルたちとの酒場での交歓がひたすら静謐に見つめられる。名だたる作家たちもここでは匿名のボヘミアンである。各人物に寄らず「場」を描く小栗康平の視座はフランス人スタッフには違和感があったようで、たとえば「鐘の音が聞こえる」という時にフランスでは「私には鐘の音が聞こえる」という主体、主語がついて回るが、日本的情感にあってはその時点以前から鐘が鳴っている「状況」を指すのであって、誰がそれを聞いているという主語は重要ではなく、むしろその述語だけの表現が感覚的になじみやすい、といった解説をしたそうだが、このかねて小栗作品の身上とする視座が本作でも頑なに貫かれる。
そして小栗康平は藤田が筆を操る場面をもっともらしく描くことを慎み、むしろ「フジタナイト」と呼ばれる一夜の乱痴気騒ぎを入念に再現する。自らもはめを外して女装した藤田は、キキに着物をきせてちょっとキッチュで愉快な花魁道中と洒落こむ。こうして藤田はパリの仲間たちに日本的なるものを紹介して関心をそそりながら、底抜けに奔放な日々を満喫している。その「場」の放つ自由さ、洒落っ気、エロティックな香りなどなどを、小栗監督は(台詞では何も解説せずに)極めて洗練された美しい映像のなかに感じさせようとする。撮影の町田博と照明の津嘉山誠のデジタル映像における陰翳礼賛の試行は特筆すべき成果をあげている。
そして一転、もうひとつの断層の露頭は、1940年代の戦時中の日本である。画面から鮮やかな色彩は失せ、どこか侘しく枯れたような渋い田舎の光景が続く(もっとも映像自体は低温で澄み切った美しさをたたえているのだが)。あのお調子者=”FouFou"とは別人のような、軍服に身を包んだ藤田が、なんとも言えぬ表情で自らの「戦争協力画」のそばに直立している。官能と放蕩の時代とは別人のようにタッチも変わり、劇中に出てくる「アッツ島玉砕」のように思いきり西欧絵画の技法に転ずる。そしてその軍部に強制されて描かされたモチーフの画であっても、藤田の画力は見る者を揺さぶるのであった。藤田と軍部のやりとりはごく簡潔に描かれるのみだが、戦意高揚に向けての強硬で断定的な注文に藤田はあからさまな抵抗はせず、むしろ殉教者のような表情で全てを諦め受け止める。しかし、モチーフやタッチは変われども、藤田は画を描く虚心さは絶対に譲り渡していなかったのではないかと、本作は無言のうちにほのめかす。
大くくりに言うと、ごく念入りに作られた小栗康平監督十年ぶりの新作は、この人生のたったふたつの断層の露頭、そこに見えるものやけはいの落差を描いているだけである。本当にただそれだけである。それだけのことである、というのが本当に素晴らしい。概ね月並みな伝記映画しか想定しにくい藤田嗣治という素材をもって、ここまでその一個人としての人生を映画的に濾過抽出した思いきりのよさはあっぱれというほかない。もちろんそのゆえに、今時の瞳の悪食を強いられている観客たちはとまどい、この研ぎ澄まされた映画の味についていけないかもしれないが、「露頭の差異、ただそれだけのこと」が観る者に感じさせるものは、途方もなくさまざまである。
小栗監督が語るように、ここからかつて日本が「近代」を慌てて受容しようとしたひずみが今にも至る、というような主題にも敷衍できるかもしれないし、あるいはその落差を超克せんと藤田の中で密かに跳ねていた美学=キツネのイマージュについて思いを馳せてみることもできるだろう。ハリボテのように空疎な商業作品が目白押しのなか、本作の超俗ぶりはほとんど痛快爽快の域にあり、この身じろぎもせぬ頑なな視座を感じたのは最近で言えば僅かに本作と候孝賢『黒衣の刺客』くらいである。