来るべきゴーストタウンの抱擁家族

どれも同じような顔をしたドラマが多すぎて、つい地上波のドラマよりもBSやCSの旧作発掘のほうに食指を伸ばしてしまいがちなのだが、ひょっこりこういうドラマに出会うと油断ならないなと思ってしまう。それはNHKの90分の単発ドラマ、井上由美子脚本、笠浦友愛演出の『2030 かなたの家族』だ。

これはまずちょっと珍しい近未来SFドラマであって、2030年というちょっと先の時代を舞台に、家族のありかたの変質を見つめる異色の試みだ。主人公の青年・掛(瑛太)、妹の絵美衣(蓮佛美沙子)、父・透(松重豊)、母・佳子(小林聡美)、祖父・勝三(山本學)、祖母・さと子(渡辺美佐子)からなる板倉家は、子どもたちも独立し、父母は離婚しているが、主に父の強い意向もあって年に一度顔を合わせて食事をすることになっている。だが、そうやって無理にそれを決めるのはナンセンスで、会いたい時に会えばいいじゃないかと絵美衣が提案し、父を除けば祖父母以下その意見にきっぱり賛成も反対もする者はいない。そのなんともいえない状況に、ニュートラルな掛はとまどう。

さらに掛は、シェアハウスの仲間である美冴(相武紗季)から意外な申し出を受けて当惑する。というのは、美冴は結婚はせずとも子どもだけが欲しいので、掛に協力してほしいと言う。しかもその理由が、「掛くんが凄く好きと言う訳でもないけれど、掛くんみたいな人は無難で安心だから」というもので、掛はその「自分」ではなく「掛くんみたいな人」というところが非常にひっかかる。視聴者は掛のように、この絵美衣や美冴の考えが、建前的なものを排除して合理的だとは思うものの、やっぱり何かおかしくないかという気持ちでドラマを見始めることになる。

ところでこの板倉家は、日本のIT化、グローバル化、高齢化といった潮流を映した家族構成になっていて、ロボット開発でヒットを出せずにクビ寸前の掛やグローバル企業で企業買収に失敗して挫折しまくっている絵美衣のように、子ども世代はなかなか酷薄な現実のなかで生きている。親世代の透は不動産ディベロッパーながら少子高齢化の影響で自らが拓いた街がゴーストタウンになってしまう状況に悶々とし、逆に別れた妻・佳子はその増えゆくシニア層の暮らしを支援する新たな「街」を立ち上げて成功している。そんな時代にシニアになってしまった勝三とさと子は、穏やかにその「街」に暮らしながらも作られたシステムへの違和感を募らせている。

しかしこのドラマが思わぬ比重で踏み込んでゆくのは、そうやって家族の建前的でない合理的な関係を提唱した、クールでドライそうな絵美衣の横顔である。絵美衣はいい大学を出て、世界有数のグローバル企業で働いていたものの、仕事と結婚で躓き、その繊細な人間性などにはかまっていられない競争社会からドロップアウトし、逆にその社会のレールからはみ出してしまった人々の受け皿となるような「自活経済システム」を作って運営している。その意気やよしなのだが、いかんせん彼女の熱い思いは空転し、そこに集う社会からはぐれた弱者たちの重症な絶望感や劣等感をくみとれず、せっかくの試みも破綻する。

ここで興味深いのは、この絵美衣という人物の掘り下げである。彼女はグローバル化の波のなかで傷ついた経験から、本気でこの弱者たちに思い入れをし、彼らを敗残者としない別の理想の枠組みを構築しようとする。だが、その思いがせっぱつまって純粋化、厳密化されるほどに、現実の人心はどこか置いてきぼりになって、人びとは彼女が理想をふりかざす「女王様」のように見えてみんな去って行ってしまう。これは彼女の焦りと未熟さゆえのことで、確かに彼女は傷ついた自分自身の恢復のために「誰かとつながりたかった」と焦るがあまり、目的と手段が入れ替わってしまったふしもある。だがしかし、彼女が弱者を差別的枠組から解放したいと本気で思ったのも確かなのである。

絵美衣はこうして根っこが純真で不器用なために、なんとなく一家が集まることにさえ異議を呈したりしていたのだが、これとて実は彼女が合理的でクールだからではなく、ひと一倍その家族のつながりに対する思いがあって、それを厳密化するが余り、家族のなんとなくの集まりが我慢ならず、他人とならより切実にその絆を確かめ合えるのでは、と思ってくだんのビジネスモデルを立ち上げたのだった。絵美衣が掛に「おばあちゃんは私が預かる。家族としてではなく他人として」と言って思いきり呆れられる場面は象徴的で、ひときわ家族の関係にこだわるがゆえにこうした極端な反語的行動に出る絵美衣の”潔癖症ゲリラ”的な人物造型は、ひじょうに面白かった。というのも、彼女のように思いは濃いくせに理念がワンウェイに先走って人間関係が孤立してゆくキャラクターというのは、特に今の泥臭い密着型の人間関係が希薄化してバーチャルな世界が肥大していった社会に増えてゆきそうな気がするからだ。社会に冷遇された弱者たちの自由と平等を謳っていたはずの彼女が、たてついた若者に俄然ヒステリックな命令調で叫び始めるところなど本作で最も印象深い場面だ。

それに対して、兄の掛はきょうだいだけに絵美衣と同じ根っこを持っているのに、ハシカのようなその感情と早い時期に向き合ったせいか、今は家族や他者というものに鷹揚である。というのも、小学生時代の一家そろってのお花見の際、幼さゆえの敏感さで偽善的なものを感じた掛はいきなり桜の樹にのぼって号泣しつつ、来年の桜は決して咲くな、そして家は潰れ街は消えてしまえとナイーブな思春の呪詛をぶちまけるのである!いやはや兄もまた実に過敏で繊細な血統であることを存分に表明してやまないシーンであるが、現在の掛はもはやその時自分がなぜ桜の樹にのぼったのか思い出せない(思い出したくもないから忘れるのだろうが)くらいにこなれた社会人になっている。そんな掛が思い極まって自爆した絵美衣の凝り固まった感情を「かっこわりぃー」と言い放ってほぐしてあげるところは非常にいい場面だ。

この何ら高邁でもなく感情を素朴にぶつけあう、なんでもないコミュニケーションにこそ、家族の大いなる存在理由がある、と本作は何気なくも主張しているのかもしれない。それに続くなんでもないじゃれ合いの後ですっかり解放された絵美衣の「お兄ちゃんは、お兄ちゃんだから」というひとことに到達するまでの、これはややこしくじれったい未来の家族関係の物語である。あの突飛な申し出をしてきた美冴とも、掛はいわばごくごく当たり前のつきあいを願い出る。結局はそこなのか、という素朴な感情の応酬に帰還するまでの、これはなんとも遠回りで念入りな精神の迂回と彷徨の寓話なのだった。そして、なぜに2030年の彼らがそんなに迂回しなければならなかったかというと、それは現在よりもさらに煩瑣なかたちになるであろう有形無形の「システム」のせいであろうと暗に本作は占うようだ。

脚本の井上由美子と演出の笠浦友愛のコンビは1997年の『熱の島で ヒートアイランド東京』、2006年の『マチベン』とひじょうに見応えのある異色のドラマを放ってきたが、本作はまたその新境地となるものだろう。そして、本作の軸となる凸凹コンビ的なきょうだいを演じた瑛太と蓮佛美沙子がいつもにもまして精彩を放っていた。