樋口尚文の千夜千本 第41夜「岸辺の旅」(黒沢清監督)

(写真:毎日新聞デジタル)

路上の霊魂と、映画の深き淵へ

これは一応幽霊をめぐる映画なのだろうが、ちょっと珍しいのはその主人公の幽霊が彼岸ではなく此岸を巡礼するという点である。幽霊のロードムービーながら、ここでいう「岸辺」はこちら側である。だから、この幽霊はまだ半端者の幽霊といったところなのだが、思えばこうして霊魂をめぐる映画でいわゆる中陰を描いたものはあまり心当たりがない。『天国から来たチャンピオン』や『異人たちとの夏』や『ツナグ』といった作品の幽霊は、あきらかに彼岸の人として描かれていて、おおむね死者との再会というメロドラマに明快に収斂されてゆく。だが、中陰の人である浅野忠信は、幽霊なのか生身のにんげんなのか、ぱっと見には全くわからない(ように描かれている)。そして、このことがいつもの黒沢清作品のように、映画表現の本質的な面白さ、「怖さ」にリンクしているのだ。

浅野忠信扮する夫が失踪して三年を経て、ようやく諦めの気持ちにたどりつき、ピアノ教師の職を再開しはじめていた深津絵里扮する妻。そこへ忘れ物を取りに帰るような気軽さで、浅野が「俺、死んだよ」と現れる。何の予備知識もなく観ていたら、すべての観客は失踪していた夫が悪い冗談を放ちながら改心して帰還したようにしか見えないだろう。そして浅野は深津に見せたいきれいな場所があると言って、彼にとっての思い出の場所の巡礼に彼女をいざなう。以下、しがない新聞配達店を営む老人(小松政夫が好演)に始まり、小さな食堂の夫婦、山間の農園の家族(柄本明が『愛を積む人』の同様の役柄もあいまって作業着が余りに板についていた)を訪ね歩き、深津は追体験のようなかたちで人びとの機微にふれ、夫の未知なる一面を知ったりする。

この間、浅野が幽霊であるという説明的表現は一切無いので、人びとは何の抵抗もなく好感の対象として彼を迎え入れる。そのなにげない日常のドラマのなかで深津は夫を理解し、なぜ彼が失踪したのかを探る。また、そこで彼女は死者にとらわれた人や実はすでに彼岸に渡った人の思いを共有することにもなるのだが、本作に静謐で魅力的なスリリングさを担保しているのは、(浅野忠信を含む)こうした人びとが彼岸の旅人なのか此岸の住人なのか、にわかには断じ難い雰囲気が継続することだろう。

あるいは中陰の路上の霊魂を描いた傑作であったかもしれない『ツィゴイネルワイゼン』の有名な惹句に、「生きているひとは死んでいて、死んだひとこそ生きているようなむかし、男の旁にはそこはかとない女の匂いがあった。男にはいろ気があった。」というのがあったけれども、ちょうどそんな感じのけはいが本作にも(さりげないかたちで)充満している。こうしたけはいを醸す演出は黒沢清監督の真骨頂であるのだが、そんな世界観を支えるものは、たとえば『トウキョウソナタ』の、家庭のうららかな日常の映像を『叫』のようなえも言われず不穏なタッチでとらえてみせる感覚である。優れたパートナーである芦澤明子のカメラは、今回もその対位法的な映像感覚をもって作品に大きく貢献している。

浅野忠信の中陰の霊魂は、あの世への踊り場としてのこの世をけろりと徘徊するのだが、この説明抜きの何食わぬ感じが大事なのだ。誰しも映画を観ている時、そこに映っているものが彼岸の出来事なのか此岸のそれなのか絶対に断ずることはできない。特に今回は『回路』の時のような此岸の裂け目ないし彼岸の入り口がわかりやすく設けられているわけでもないのでなおさらだ。人物たちの余りになにげない彷徨は、われわれにその当たり前の事実を呼び戻して戦慄させるのだが、それは黒沢清作品のオハコともいうべきおなじみの感覚だ。黒沢作品の「怖さ」は、映画の本質的なわからなさ、ノンジャンルさにわれわれをチラリと覚醒させることに由来しているわけだが、その表現の手際は本作でいよいよ洗練の境地を迎えている。

そのなるべく引き算にして何も施さない(ことが本質的な映画の「怖さ」を担保する)演出作法にとって、求められる演技も同様に「格別に何もしない、さりげない」ものである。これは推測だが、黒沢清は画のなかでの立ち位置や動きのシンプルなお約束以外は何も本人に要求していないのではないか。実は水際立った何かをやってみせて熱演の証しとしがちな俳優という職業にとって、この「何もしない」ことは時として過酷であるのだが、浅野忠信はもはやそこにいるだけでいい、というたたずまいを獲得していて、最近では河瀬直美監督『あん』の寡黙な永瀬正敏(ただ厨房でどら焼きをせっせと作っているだけでさまざまな横顔を感じさせた!)ともども進境著しい。深津絵里も、近作の『寄生獣 完結編』でのエイリアンの演技に改めて天才じみたものを感じたけれども、本作でもあいかわらず浅野の個性を的確な間合いで受け止めていて、芸達者ぶりを見せていた。