樋口尚文の千夜千本 第32夜「ローリング」(冨永昌敬監督)

いのちとえいがぼうにふろう

あれは大槻ケンヂ氏であったか、中野に数年前まで中野ひかり座というかなり年季の入ったふぜいある映画館があって、そこで日活ロマンポルノの三本立てをだらだら観ていると瞬く間に夕暮れになっていて、ああ今日も一日むだにしたなという気分に浸るのが快感だった、という趣旨の文章を書いている方がいて、その場所で全く同じ経験と気分を味わった者としては、そうそうと膝を打ちながら、いったいあの素敵な感覚はなんだったのだろうなあとひとときの回想に走った。

まずこの中野ひかり座(古い建物の壁面には「光座」と漢字で館名が表示されていたが)といううらぶれた建物全体がもう日活ロマンポルノにいかにも出てきそうな場末感のかたまりであり、少々わかりにくい階段をのぼって潜り込む劇場で上映されているロマンポルノ作品も、おおむね低予算即製なので、たぶん調布の日活撮影所近辺のロケ地のちょっとシャビイな地方都市っぽい「匿名感」と、スケールと鳥瞰を伴う大河ドラマは無理だから決まって人びとのつましい日常を(しかもセックス中心に)天眼鏡で見るような「破片感」とが相俟って、何やら映画館と上映作品が揃って「人生の辺境」を体感させてくれたのだった。

これは正確にいうと「あらゆる人生は辺境である」という感覚なのだが、こういう味わいは都心のこぎれいなシネコンでメジャー大作を観ている時には決して出会えないものだ。そんな感覚を特に日活ロマンポルノの無名戦士のごとき作品群はしばしば呼び覚ましてくれたのだが、たとえば今はもう誰の口の端に上る由もない『少女暴行事件 赤い靴』という作品の「辺境感」といったら半端なかった。尾崎豊の歌にもなった現実の事件に取材した映画だが、茨城の古河のしけた風景のなかで暴走族連中とつるんでいた女子高生が、なじみの土地を離れると決めて新宿のディスコに入りびたり、謎の男に誘われた後、草むらに無残な遺体となって転がっている。

この場末の町の青春のなんともいえない空虚さがそのまま劇的なひねりも何もなく、ただ流れにまかせて結末の寂寞につながってゆく、ただただそれだけの散らばった破片のような映画。まるで不出来な映画だが、別に私は上出来な映画などは必要としていなかった。こういう「人生の辺境」にふれる詩篇(なのか破片なのか)と不意にすれ違えるだけでも、ひかり座のような劇場へ日活ロマンポルノを追いかけて一日を棒に振る価値はあった。もとい棒に振ることに価値があった。しかし日活ロマンポルノのように知的ではぐれた映画も消え、しけた映画館も滅んだ今、こういう映画にお目にかかることはまずなくなった。

さて、壮大なる前置きになってしまったが、冨永昌敬監督の新作『ローリング』を試写で観た時、私はあの日活ロマンポルノ的な「辺境感」の充満するさまに全身でびりびり共振した。もちろんそれは何か本作にロマンポルノ的な官能シーンが頻出するというわけでは全くない。この積極的にためにならない映画を純度高く作り上げようという意志が、ロマンポルノ的世界を支えた作り手たちの知性につながるのである。しかし冨永監督は実際よくもこんなためにならない話を考えついたものだと思う(SNS時代は長文のリテラシーに難がある向きも存外いるのでここで誤解なきように言っておくが、本稿で「ためにならない」というのは最大級の賛辞である)。

水戸で飲食店などにおしぼりを運んでとりかえるおしぼり業者の青年・貫一(三浦貴大)がひょんなことから高校時代の先生・権藤(川瀬陽太)にばったり、おかしなところで再会する。先生といっても、彼は十年前に学校で女生徒を盗撮する事件をおこしてクビになり、以後行方をくらましていた。そんな先生は、東京のキャバクラで惚れた女・みはり(柳英里紗)を彼女として連れているが、貫一はみはりに惚れて先生から奪う。一方、貫一の同級生たちは、うっかり戻ってきた権藤をエロ教師としてぼこぼこに愚弄するのだけれども、そのうちのひとりが先生の盗撮した映像をつかってゲスな金儲けのアイディアを思いつき、これに権藤はおろか貫一まで巻き込まれてゆく。

そのへんの本当にあほらしい思いつきは劇場で観て呆れてほしいのであえて言及せずにおくが、とにかく事の発端となる十年前の出来事から、因果はめぐって今進行する諸々の小事件や人間関係のなんともいえない変容のすべてが、この人物たちのだらけてしまりのない、もしくは行き当たりばったりの姿勢に起因している。かかるみっともなさと怠惰さだけで映画が作れることを教えてくれたのは、ミケランジェロ・アントニオーニであり藤田敏八であったわけだが、本作もどこかで実りある展開に収縮していくのではと危惧していたら、見事に最後まで無為な状況のみが貫かれたのでひじょうに好ましかった。

くだんのあほらしく邪まな思いつきによってつながってしまった権藤と教え子たちがバカをしでかすくだりは、本作で唯一いくらかドラマっぽい緊迫を呼ぶ部分なのだが、これとて敵対する側のにんげんがまたずっこけていて、たちどころに緊張関係がほどけてゆく。というか、相手側の連中も何やら適当に生きている感じがむんむんして、なにかもっともらしい事件が形成されるムードでもなくなり、いたくしまらない雰囲気が蔓延するばかりである。私が本作の試写を観る少し前に、総理官邸に放射性物質搭載のドローンを飛ばした男がいたが、男はきっとこれで官邸を大騒ぎさせてしけた日常から高揚したステージに行きたかったに違いないのに、まるで警備に迫力のなかった官邸で誰も落ちたドローンに気づかず、犯人が待てども待てども事件にならないというまさかのしまらない話があった。おかしいと言っては不謹慎だが、でもこの話は何から何まで間抜けにずっこけていて、苦笑失笑を禁じ得ない。そして『ローリング』における某事件が事件として生成していかない間抜けな感じが、思わずこの感覚につながっていった。そういう意味でも本作は、言わず語らずして〈現在〉の空気を濃縮して伝える作品である。

その全篇を貫く緩く冴えない雰囲気(を描く筆致は冴える一方なのだが)に、主演の三人、三浦貴大、川瀬陽太、柳英里紗の常になんだか具体性を欠く表情、たたずまいが余りにもはまっている。三浦貴大は、父君の三浦友和がかつては単なる二枚目俳優と勘違いされながら、徐々にそのファジイな表情を前面に出して『台風クラブ』や『松ケ根乱射事件』で抜群のダルな味を出していたが、まさにあの横顔をめでたく継承しているような雰囲気でよかった。川瀬陽太はこういう役柄においては人後に落ちないけれども、特に今回はもうみっともなさに次ぐみっともなさで表情が麻痺したような絶妙な感じが狙いっぽくなく出ていてなんとも傷ましく、かつ笑いを誘って素晴らしかった。柳英里紗はこれまでの出演映画も舞台もいろいろけっこう観ているけれども、本作では飄々としてコケティッシュで、でもなんだか正体不明な浮遊感を巧まざる巧みさで表現していて、これまでの出演作のなかでも突出したよさだったと思う。

また、これらのしけた人物たちの動静の舞台となるのが水戸だというのがまたよかった。これがもし六大都市の繁華街のような風景が背景にあったら、本作の魅力も大いに損なわれてしまうだろう。しまりなく具体性のない連中の、鮮やかな輪郭を持たない展開のバックには、やはりもやもやと具体性を欠く風景がなくてはならない。こんな物語には、くだんのような場末の「匿名感」と物語上の人生の「破片感」が待望されるわけだが、冨永監督の水戸縛りは見事にそれに応えてくれた。加えてここで強調しておきたいのは、こういう世界観と見事な掛け算をなしていた渡邊琢磨のサウンドトラックで、普通ならあのいったいどんな音楽をつけていいのか途方に暮れるに違いない『日本春歌考』に絶妙な音楽をつけてしまった林光にも匹敵する不穏なノンジャンルさに痺れた。

と、そんな『ローリング』を観た夕刻、六本木の試写室を出て見えるのはミッドタウンなのだが、私にはそこに日がな籠った後の中野ひかり座から出た後に仰ぎ見る丸井中野店に夕陽が反射した風景が瞬時フラッシュバックして、ああいい感じで一日棒に振ったなあという快感が蘇るのだった。それにしても本作を語る前になぜごまんとある日活ロマンポルノの中から思い出したのが『少女暴行事件 赤い靴』という平凡な作品だったのか。書きながらわかったのだが、あれは古河の話でこちらは水戸。つまりは茨城つながりだったというわけで、ここには案外と深いわけがありそうである。