樋口尚文の千夜千本 第14夜「思い出のマーニー」(米林宏昌監督)

(写真:毎日新聞デジタル)

ジブリにかつてない生きているヒロイン

宮崎駿アニメは確かに凄いけれども、あの少女たちの理想化、美化されたさまにはどうしても違和感を禁じ得ない。しかしその全作を通しての徹底ぶりは、もはや黒澤明的な女性に対する”おぼこさ”にもつながる作家の色というべきかも知れない。ということを、一年前の本コラムの「風立ちぬ」評に記している。ジブリ新作「思い出のマーニー」は宮崎アニメではなく、「もののけ姫」より駿に師事し「借りぐらしのアリエッティ」で監督デビューした米林昌宏の作品であるのだが、何の予備知識もなくその宣伝ビジュアルを眺めていた時は、少女マーニーや美しい背景の画に”ああ、また宮崎アニメのように反時代的な美少女像が描かれるのだろうか”と観る前から覚悟を決める感じであった。

ところが開巻早々、私の先入観は大いに揺らいだ。主人公の杏奈の人となりを描く、公園での何気ない写生の場面で、スケッチブックの裏側で少女の手が鉛筆の芯をわなわなと折る。そのアニメならではの”わなわな”感が、すでに雄弁に杏奈がいつもの宮崎アニメのヒロインとはまるで違う種族であることを表明していた。つまり杏奈は、ある幼少時のトラウマからどうしても自分を愛せず、というよりも精神的に自傷気味ですらある屈折した存在なのだ。そんな杏奈というキャラクターによって、「思い出のマーニー」はその題名や絵柄からは推察が難しいくらいアクチュアルな感情と切り結ぼうとする作品になっていた。

本作はそういう自分も他人も愛せない”性格ブス”(と思いこんでいる)杏奈が療養先でマーニーという金髪碧眼の謎の美少女と交歓することで病める心を恢復させてゆく物語だが、前半はこのミステリアスなマーニーとのどこか思春の頃の白昼夢じみた戯れの数々が積み重ねられ、その杏奈をときめかせる出来事の描写(ボートの上でのランデブーや告白、パーティーへの潜入など)がごく繊細なアニメ表現づくしで印象深い。潮の満ち引きやサイロ周りの雨風はもとより、ボートを接岸させる際のマーニーの綱さばきやセツが食事中にとりそこねたプチトマトをキャッチする瞬間芸などなど、それはまあ引き寄りの画の随所で小味なアニメ語彙が湧出する。そんな細部が、実にふくよかな映画の時間をつくりあげているが、しかし思えばそんな技術をもって描かれるのは、いちいちごく日常的な風景、日常的な出来事の範疇におさまるものではないか。今どきの商業的な映画のほとんどは、設定や表現のどぎつい新奇性にばかり面白さの根拠を見出そうとするのだが、本作のきめ細かいアニメ表現は、何の変哲もない日常がここまで面白さを生みだすものであることを言外に主張してやまない。

そして、ひたすら杏奈の日常という現実を描きながら、どこか甘美なファンタジーのような雰囲気をたたえていた前半は、一点マーニーという正体不明の存在によってそこかしこに謎を残す。それがやがてマーニーの秘めし横顔に踏み込む終盤で一気に反転し、前半の甘い夢のような一切合財の出来事が、ことごとく過去の悲痛な現実が生んだ優しさであり温かさであったことが明らかになる。まあよくよく考えると杏奈がその真相をそれまでに気づいていないというのも少々不自然ではあるのだが、そこは米林監督の語りであまり気にならなくなっている(というか、そういう設定の細部の都合のよさを云々するのがヤボに思われる作品だ)。ともかくここは詳しく書くのはよしておくが、これはそんなマーニーをめぐる謎解きを経るとつまらなくなってしまう作品ではなくて、たぶんマーニーの正体を知ったうえでもう一度観るとまたいろいろな感情とともに楽しめるのではなかろうか。

いずれにしてもここまで”性格ブス”に見える美少女を描いた「思い出のマーニー」は、ジブリ史上抜群に(?)心根がよくて現実感のある子どもを登場させた作品としてダントツの好感を呼ぶのであった(まさに「風立ちぬ」の対極として)。そしてそれはジブリ史上ダントツで現実の苦みや痛覚を見つめようとしている、ということでもあった。