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樋口尚文の千夜千本 第2夜 「真夏の方程式」(西谷弘監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
(写真:毎日新聞デジタル)

映画館という巨大テレビに映すべきものは?

テレビドラマを映画化する時に、もとのドラマシリーズからどんな距離感をとればいいのかというのは、作り手側の頭の痛い課題であったはずだ。

大人気のドラマシリーズを映画化する場合、観客に映画館へ足を運ばせるだけの特別感が欠かせないながら、かといって余りに特別すぎていつものテレビドラマらしさが薄れると、その世界観につなぎとめられているファンたちにそっぽを向かれる。このことに対するきっぱりとした解答が、たとえばシネコン普及期の勢いとともに大ヒットを重ねた「踊る大捜査線」の映画化には窺えた。今や社長となった当時の亀山千広プロデューサーが、「踊る~」の映画化にあたって“せっかくの映画だから”といったんは「砂の器」的なシリアスな大作を目指そうとしてやめた・・・という逸話は象徴的だ。

ここで断固“いつものドラマを、そんなに特別のものとしてではなく、いつものようなかたちで大きな画面で見せる”という方向に舵をきったことが、少なくともビジネス的には大正解だったわけである。以後、このシリーズの場合、設定や展開がいくぶんスケールアップしつつも、いつもの視聴者を絶対に逃さない、そのためにはいつものドラマとまるで同じ構えの作品を作るのである、という姿勢に常に振りきっている。

「踊る大捜査線」が初めて映画化された1998年の段階で、ここまで振り切った(割り切ったと言うべきか)というのは、きわめて先見的だったと思う。なぜなら、それから十余年を経て、急速なデジタル化が進んだシネコンでは、スポーツの試合やアーティストのコンサートをライブビューイングすることさえ可能になった。要は、全国の映画館のスクリーンがテレビになったというわけである。ODS(非映画デジタルコンテンツ)などという概念は机上のものと思っていたら、今や若い女子たちはAKBやお笑い芸人のライブを、観劇マダムたちは歌舞伎の舞台の録画を、お金を払って普通に映画館で愉しんでいる。

こんな「映画館は巨大テレビ」という認識があまねく共有された時代にあって、テレビドラマの映画化は”いつものドラマ”の延長にあるイベントであり、映画館はファンたちのオフ会なのだ、という発想は自明のものかもしれない。しかし、「踊る~」が初めて映画化された時分には、なにか映画館で映画版を映すとなると、かなり特別なおめかしやスケールアップをしないと映画とは言えないのではないか、という作り手の心配や貞操感覚があったに違いない。だが、亀山プロデューサーは、きっとその貞操感覚とケンカしつつも、きっぱりと”いつものアレ”を見せて、膨大な観客を呼び寄せた。

「踊る大捜査線」のように「海猿」も、そんな姿勢を踏襲して成功をおさめているわけだが、同じフジテレビのドラマ映画化でも「ガリレオ」の場合だけは明らかに違う方向に打って出ている。つまり、「ガリレオ」映画化の場合は、あくまでテレビとは違う世界観を愉しませるという「特別感」で売っている。映画版の「容疑者Xの献身」は親しみ深い狂言回しとして科学者の湯川がいるにはいてドラマとのなじみを担保しつつ、後は容疑者たちの人間ドラマが全体の主軸になっていたが、「真夏の方程式」の構えもかなりこれを踏襲している。まさかこの映画が前田吟と白竜の映画であるなどとは誰が予想しようか。

西谷弘監督はじめスタッフは、ドラマで親しまれた映像や音楽のテレビ的なフォーマット感はなるべく排して、あくまで映画としての「ガリレオ」外伝を見せようとしている。もっともこれは「ガリレオ」では福山雅治扮する科学者・湯川学が主役ではありながら、狂言回し的な、大いなる脇役だともいえる点の賜物かもしれない(「踊る大捜査線」のように青島俊作=織田裕二が常に中心化されている構造では無理なことだろう)。

そういえば、湯川学がいまわの際にある某人物を訪ねて、深いいわくのある子どもの写真を見せるくだりがあったけれども、ここなどはあの「踊る大捜査線」チームが踏みこむことを避けた「砂の器」的な世界に真っ向から踏みこんでいて驚きだった。ここで「砂の器」の丹波哲郎の刑事が加藤嘉の隔離患者に出会ってとある写真を見せる名場面そのままであった。音楽やビジュアルについても、”いつもの湯川のアレ”は排され、西谷監督はごく誠実であくどくないタッチをもって「容疑者Xの献身」に勝るとも劣らぬ意欲作を作り上げた。

テレビ版「ガリレオ」の安楽なスピンオフ的なものと思いこんで観ていた観客たちは、この映画版の(映画らしさを追求した)立ち位置に驚くかもしれないが、これはやはり十余年前とは違って「映画館は巨大テレビ」が一般認識として定着した現在ゆえの、”しからばもう一度映画らしいものを”というリバウンド的(ルネッサンス的と言うべきか)発想なのかもしれない。そのことをさらに濃く映したものが、たとえば君塚良一監督「遺体 明日への十日間」や是枝裕和監督「そして父になる」といった意外なる「フジテレビ映画」のストリームなのだろう。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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