明日は3月11日。震災から5年目を迎える日
アメリカ合衆国の歴史において大きな転換点となったアメリカ同時多発テロ事件が生じたのは2001年の9月11日。奇しくも(年数は違えど)月日の上ではちょうど半年前となる2011年の3月11日に発生した東日本大地震・震災が、日本では同じように転換点との認識が強いものとなりつつある。この日を境に、色々と日本が変わってしまった、歴史上ではかじ取りの方向性が変化したことは否めない。それは時間が経つに連れ、より明確な形となって見えてくる。わずかな軸のぶれも、長い距離を歩むに連れて、そのずれが明確に把握できる仕組みと同じである。
ある意味、今でも当時の狂乱の部分が継承されている部分はあり、それを続けようとする人々の思惑もそれなりに力を有してしまっている。それはおかしいだろう、との声が、主張が、各種実態となるデータが、「感情論が」「自分がそう思ったから」「そう感じる人もいるから」とのオールマイティカードによって打ち消され、非論理的・非合理的な主張が声高に語られ、押し通されるのが容認されるケースが少なくない。
明日、3月11日は震災から5年目を迎える日となる。ちょうど週末、金曜日に当たることもあり、色々と穏やかならぬ動きも見受けられる。あるいはこの一か月ほどの間、社会的に色々といかがわしい話や、「騒げれば内情、実情とは異なる事でも構わない」「問題提起という免罪符はすべてに優先される」など、物事を荒立てる、あおるような動きがあるのも、これに合わせての感はある。
ある意味、明日において、誰が何をしたのか、関連する、あるいは連動する形で何を語ったのかは、これまでの「3月11日」の時以上に詳細に記録し、覚えおくようにした方がよいだろう。5年という節目で、各人が何を考え、どのような思惑をしているのか、それが行動や言動から透けて、さらは具体的に見えてくるはずだ。
法的要件、倫理的規範から外れない限り、人には表現の、行動の自由がある。しかし同時に、その行為が第三者の目に留まるような披露となった場合、それが記憶・記録され、さまざまな判断の材料となるのを否定することはできない。「自分の想いをこのように表現した。しかしその表現を元に自分の思惑以外の判断をするのはまかりならぬ」は筋が通らない。
これまでも震災以降に毎年やってくる3月11日には、それを機会に色々と不適切な、不義理な、倫理観に反する行為や発言がなされている。そしてその後、「周囲にのせられて」「勢いでついつい」「周囲が、支持者が求めているから」と自責を回避しようとする、さらには「そのようなことをしたとの覚えていない」「知らない」と弁明する界隈も少なからず見受けられる。
そのときにしっかりと実情を、事実を提示できるよう、有無を言わさないようにするためにも、記録は非常に大切である。人は忘れやすい生き物に違いないが、物事を記録し、情報として時間を超えて蓄積し、逐次検索して活かす知恵によって、間違いを正し、進化を続けてきた。それを忘れてはならない。
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