”自粛翼賛体制”へのぬぐい切れない違和感

国の自粛要請で閑散とする歌舞伎町(東京)(写真:長田洋平/アフロ)

 国による緊急事態宣言発令後、都道府県単位で飲食店や小売店などへの休業要請が相次いでいるが、これは単に「要請」であって「強制」ではなく法的拘束力はない。そんな中、筆者が危惧していた状況が大阪で起こった。4月20日の共同通信報によると、

新型コロナウイルス特別措置法に基づき民間施設に休業を要請している大阪府で、府のコールセンターに「対象の店が営業している」といった通報が20日までに500件以上寄せられたことが分かった。厳しい経営事情にもかかわらず行政の支援は限定的で、やむなく営業を続ける実態がある。だが府は施設名公表などさらなる対応強化を視野に入れる。

 「なぜだ」「見損なった」。大阪府吹田市のレストランは14日から営業を自粛したが、店が立ちゆかないと再開方針をインターネットで告知したところ、批判のメールが多数届いた。経営者の男性は「精神的に参ってしまった」と来月6日までの休業を決めた。

出典:営業してると通報500件、大阪(強調筆者)

 という。大阪府は国による緊急事態宣言の「特定警戒都道府県」に位置付けられており、今次コロナ禍の感染爆発の推移に特に注意が注がれている自治体である。とはいえ、国の緊急事態宣言に基づく各自治体単位での小売店や飲食店などへの休業要請には法的拘束力はなく、またそれに反したからと言って罰則もない。最終的に店舗の営業は各店舗経営者の判断にゆだねられている。そもそも、休業要請に従ったところでその休業保障が姑息的(一時しのぎの意)・曖昧模糊としているので、忍んで営業を継続するしかない―。そんな已むに已まれぬ、悲鳴にも似た飲食店の声が聞こえてくる程だ。

 にもかかわらず、国や自治体が強制したわけでもないのに、「(休業要請)対象の店が営業している」と府のコールセンター(お上)に密告するように市民が自主的に通報するのは、実質的に監視社会・密告社会・通報社会と同等であり、本来自由なはずの経済行動を阻害する”自粛翼賛体制”と言わなければならない。

 もちろん、新型コロナウイルスの感染拡大を阻止する試みは、官民を挙げて参画するのが望ましいところではある。が、本来自由なはずの人の移動、経済活動は日本国憲法で保障された「自由権」の範疇であるとみなすこともできる。あるいはその営業をしなければ経済的自衛のめどが立たないのであれば、その営業継続はやはり憲法が保障する「生存権」の範疇なのではないか。

 国や自治体の「要請」に従い、敢えて臨時休業の選択肢を採ることも一理あるが、その選択を採らず、営業を継続することも権利として存在している筈なのである。つまりは商店主や個人には、国や自治体の要請に「従順である」選択肢もあるが、と共に「従順ではない」という選択肢も同等に存在するのである。

 しかし、もはや”自粛翼賛体制”となった日本社会では、そのような本来、可否同等の選択ができる自由は許されず、あまつさえそのような自由権の選択は「お上から言いつけられた規律を乱す行為」として通報の対象になるとは、民主的自意識の欠如した末法の世とせねばならない。

 ”自粛翼賛体制”はあらゆるところにその影を落としている。閉店はしないものの「夜の部」の営業時間を短縮した居酒屋。24時間営業の姿勢を崩さないものの、ビニール間仕切りを設置してコロナ対策をアピールするコンビニ店舗。その姿勢に、どれほどの科学的・医学的根拠があるのか、示されていない。

 夜の営業を短縮したり、会計場所にのみ場当たり的な「間仕切り」を設置したところで、パンデミックは何%低減するのか―。どの研究報告に基づいてそのような策を講じているのか、私はその根拠を寡聞にして聞かない。言葉を乱暴にすれば、「他店でもやっているからうちも合わせないと」という、科学的・医学的根拠に基づかない安易な右に倣えの方策に思える。このような心底が、”自粛翼賛体制”の底流にあると私は感ずる。

・自己責任論を超えた他罰意識と歪んだ正義感

 2004年、イラクでカメラマンを含めた邦人3人が武装勢力の人質になると、インターネット空間では、特に右派寄りの勢力から「危険地帯と知って行ったのだから、彼らの行動は自己責任であり、政府は3人を助ける必要はない」という放置論が沸き起こった。いわゆる「自己責任論」の始まりである。同じように、2015年、ジャーナリストの後藤健二さんらがいわゆる「イスラム国」勢力に拘束され、殺害された際、ネット空間ではまったく同じ反応が沸き起こった。

 彼らは危険を承知で行ったのだから、政府は税金を使って助けるべきではない。よって政府は彼らを助けることなく放置するべきである―という究極の自己責任論が跋扈した。しかし、今次コロナ禍では、生活自衛のためやむなく営業する小売店や飲食店に対して「自己責任だ」と放置するばかりではなく、それに重ねてお上に通報して店を罰してもらいたい。何としても店を休業に追い込んでやりたい―という歪んだ正義感ともいうべき他罰意識すらも跋扈している。

 ハッキリ言って異常な光景である。法律では罰せられないので、道徳的な観点から「不道徳」を説き、人々や公権力が「それは不道徳で、有事にあってあるまじき行為だ」と同調する空気を背景にして圧力をかけさせることに溜まらない快感を覚える人々を、筆者は「道徳自警団」と名付けたが、それが今次コロナ禍で起ころうとしている。

 外出自粛や飲み会の自粛はあくまで国の「要請」にすぎず、「強制」ではない。国の「要請」の根拠に納得したならば外出や飲食を自粛したらよいし、納得しないのなら外出や旅行や飲食は本来自由のはずである。すべては人々の自由意思にゆだねられている。他人がどうしているから、隣がどうしているから、という判断は、本来判断の基準になりえない筈だ。

 そしてそれにより、仮に新型コロナウイルスに感染したとしても、等しく平等に治療の機会は設置されるべきである。「国の命令に背いて勝手な行動を採ったものは、何が起こっても自己責任である」という考え方は、その命令が強制力を伴った時に初めて発揮され得る理屈である。そうなった(感染)としても、公衆に対して謝罪の必要は一切微塵もない。そして本来的に言えば、その強制に意図的に反した者ですら、公的な救済は講じられるのが近代社会の道理である。ところがこういった考え方が、ことさら新型コロナ禍において欠如していることが顕在化したように私には思える。遅れたこの国の民主的自意識が、新型コロナ禍で噴出しているのではないか、と私は疑う。

 お上がする「要請」に従わない店舗を通報し、自粛に追い込んで悦に浸るような精神性は、翼賛体制以外の何物でもない。そしてその精神性は、当人の自意識や故意の有無にかかわらず、すべからく「お上」の側に加担した、想像力が欠如した一方的な言説と捉えることもできる。

 ちなみに先の大戦中、戦時統制下で強化された「隣組」の歌唱には、以下のフレーズが登場する。

とんとん とんからりと 隣組

格子を開ければ 顔馴染み

廻して頂戴 回覧板

知らせられたり 知らせたり

出典:隣組(作詞:岡本一平,作曲:飯田信夫)

 このフレーズのもと、最終的に日本軍民約320万人が戦争で死亡することになった教訓を、私たちは改めて噛み締めなければならない。結局、お上による相互監視的な市民社会の構築は、科学的合理主義を背景とした圧倒的な工業力を持つアメリカを前にして、その戦争遂行に何の役にも立たなかった。それどころか、市民による相互監視社会の構築は、終戦直後に「一部民衆による特高警察への報復」「一部軍人による軍上官への恩讐」として少なからず本邦社会に分断をもたらしたことは言うに及ばない。

 以て今次コロナ禍では、相互監視的な市民社会の構築は、お上から命令されたわけではないのである。その要請への参加は、私たちの自主的な意思にゆだねられているという事実を忘れてはいけない。私たちは隣組に参加する自由を有するが、と同時に参加しない自由も等しく有しているのである。コロナ禍の前、やれ「多様性」「みんな違ってみんな良い」などと吹聴していた吾人が、急に翼賛体制の一員になり、「STAY HOME」などと強制してくるのであれば、その言説を疑ってしかるべきであり、そしてそれに抗する民主的自意識と矜持が求められよう。(了)