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「ならわし」の力を見くびるな 科学を活用してさらなる成長を遂げる

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(写真:アフロ)

 8月3日、MITテクノロジーレビューに「中世欧州の医学はまやかしか? データマイニングが明かす真実」と題する記事が掲載された。

 中世ヨーロッパの医療で用いられていた薬物は、ほとんどが有効性のない薬か、迷信であるとみなされてきた。しかし、当時の医学書『ライル・オブ・メディスン』をデータマイニングで分析したところ、どうやら現代の医学による検証にも耐える合理的な治療パターンに従ったものであることが明らかになった。ペンシルベニア大学のエリン・コネリー博士は、こうした手法によって、中世の文書から現代の科学においてまだ知られていない新しい抗菌薬などを発見できる可能性が高いと述べている。

 ときにわれわれは、「科学的に証明されていない」と言って、過去から積み上げられてきたものを否定する。しかし現代の科学体系は、たしかに発展を遂げてきたとはいっても、すべてのものを明らかにする力などない。科学的に証明されていないということは、証明する力がないか、もしくはいまだ吟味されていないだけなのかもしれないのだ。

 科学を否定しているのではない。そうではなく、科学はつねに発展途上にあるということだ。したがってまた、諸々の科学の動向には、たとえ浅い見識しか持っていなくとも、たえず目を光らせていなければならない。新たな可能性は、次々と生まれている。この社会がどこに向かっているのかを知り、目の前の現象がいかなる意味をもつのかを理解することで、変化に適応することができるようになる。

 同様のことは、ビジネスにも言えることだ。近代的な経営などと言って、むやみに慣行を棄て去ってはならない。何か意味があるのではと考え、それが通用している限りは、残しておくように努めたほうが安全なのである。習慣や慣習は、ひとたび失ってしまえば、再び定着させることは難しいのだから。

積み上げられてきたものを見くびるな

 近代科学の理論的枠組みを提供した17世紀の哲学者ルネ・デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」という命題によって、信仰によって保証された真理から離れ、人間のもつ「自然の光」としての理性によって、真理を探求する道を案内した。

 もともと理性は、真理があらわになったときに、それを見出し、認識することのできる能力を意味していた。しかし、デカルト以来蔓延した新しい理性についての観念は、明証することのできる前提から、論理的に推論を重ねることで、真理へと到達できる能力を意味した。このような理性の観念は、人間が意図的に計画し、それに基づいてなされる行為だけが、真理へと到達するための手段として有効であるという考えを生み出すものであった。

 しかし、文明はつねに時間的生成や歴史的経験によってつくり上げられてきた。一人ないし少数の人間の考案した社会が、現世において有益なものとなる可能性など、ほとんどない。たしかに、近代の社会哲学者たちの多くは、単によき社会の形態を構想していただけかもしれない。しかし、近代の理性がそれ自体として称揚されるのであれば、そこから生まれた思案は、試されざるを得なくなるだろう。

 人間が理性によって認識できるものは、自然や社会の全体よりも、明らかに少ない。そうであれば、科学的検証に耐えたものをもって真なるものと定義してしまえば、いまだ隠されたもの、人知を超えた叡智をも、棄て去ることになるだろう。かくして、真理の断片でしかないものをもって真理であるとみなす嘘事によって、われわれの社会はつくり変えられていくことになる。それによって設計された社会は、既存の社会よりも単純化された社会であり、したがってまた、全体に対する配慮に欠けた社会にほかならない。

 だからといって、科学には有用性がないというわけではない。近代文明は、たしかに科学の助けによって発展を遂げ、人々の生活を豊かにした。重要なのは、むげに経験の賜物を否定しないことである。すでにあるものには何か意味があるのではと考え、それに敬意を払い、知識を引き出すことが、われわれの社会を発展させるためには必要なのである。

試してみながら定着させる

 「人間の叡智の作品が完全の域に接近できると信じる人間は、余りに物事を高望みする者、それゆえこれについて貧弱かつ虚妄な考えの持ち主である。」エドマンド・バークの言葉である。

 科学は、実験によって成り立っている。そして実験には、失敗がつきものである。社会的実験を行えば、失敗したときには必ず被害を受ける人が出てくる。実験が大規模であれば、それにともなって被害者の数もまた増大する。そうであれば、社会的実験がなされるときの影響範囲は、小さいほうがよい、ということになる。

 企業においても同様である。抜本的な変革は、もしそれが失敗したならば、企業の存続を脅かすほどのダメージを被ることになる。とくに企業などの組織は、長きにわたって様々な経験をし、状況に応じて適切に対処することで学習を重ね、経営慣行をつくり上げてきた。その慣行は、そこで活動する人たちの慣れ親しんだものであり、いわば身体の一部である。それらを一挙に奪い去り、新しくあれこれをせよと言われたとて、うまくいくはずがない。

 変革は、緩やかに行われなければならないのである。バークは言う。「われわれの治療策は、われわれの病気と当面の病症、そして疫病全体に適合しなければならない。」われわれの社会は、たえず変化している。そこでは培ってきた経営手法やシステムが通用しなくなることもあるだろう。そこで活用できるのが、科学である。科学は、われわれの生をよりよいものとする可能性なのである。その可能性を開花させるためには、小さく試してみることである。そうすれば、それが自社にとって有用かどうかがわかってくる。そのような小さな実験の連続だけが、ビジネスの持続的な成長を実現する。

 積み上げられてきたものを見くびってはならない。それは長年、人々の間で通用し、それゆえ有用性があるものとして続いてきた。われわれにできることは、先人のもたらした功績に配慮し、その土台のもとで、さらなる発展の道を探ることだけなのである。

 参考 『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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