やる気のみなもと「愛国心」 マハティール首相から日本人へ

 5月14日、ライブドアニュースに「マレーシア首相が日本の高校生に送ったエール 「日本人よ誇りを持て」」と題する記事が掲載された。92歳にしてマレーシアの首相に返り咲いた、マハティール・モハマドのメッセージが書かれた記事である。

 親日家のマハティール首相の『立ち上がれ日本人』は、名著である。すでに絶版になっているが、AmazonではKindle版が出ているので、興味のある人は購入してほしい。記事には「序章 日本人よ誇りを持て」が、全文掲載されている。

 かつての日本人は、強い愛国心を持ち、戦後の復興のために献身した。寝る暇を惜しんで技術を磨き、新しいことにも果敢に挑戦することで、経済を成長させたのである。ついに日本は、エズラ・ヴォーゲルによって「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれるに至った。たしかに日本は、たゆまぬ努力によって、かつて世界の頂点に立ったことがあったのである。

 マハティール首相は言う。「人々が国の再建と経済を発展させるために献身的に尽くす光景は、今もまぶたに焼きついています。その後も訪れるたびに発展していく日本の姿を見てきたからこそ、首相になったとき私は日本と日本の人々から学ぼうと思ったのです。」そしてマレーシアは、マハティール首相の掲げた「ルック・イースト政策」によって、目覚ましい経済発展を遂げた。結局のところ、経済を押し上げるのは、人間の活力なのである。

 日本に活力をもたらすのは、愛国心である。国を愛し、よりよい未来をつくり上げようという、強い心である。愛国心をいかに育むかが、日本の未来を決める。

日本人の自信を取り戻そう

 日本から活力が失われて久しい。いまや日本は「失われた20年」と呼ばれるに至る。

 この原因を、筆者は教育に突き止めている。日本人の多くは、挑戦するための動機や気概をもたない。勇気を出して、世のため人のため、明日の日本のために貢献しようという強い気持ちをもたない。そういう「心の教育」がなされてこなかったことが、わが国の衰退を招いたのである。

 わが国の国民は、他国に比べて、著しく自己肯定感、自尊心 self-esteem が低い。とりわけ若者にその傾向は顕著に表れており、自分自身に満足している人の割合は半分にも満たず、多くの人は日常的に悲しみや憂鬱を感じている。それゆえ、社会をよりよくするために貢献したいと思っている人は4割しかおらず、自己の力で社会が少しでも変えられると思っている人は、実に3割である。そのような状況だから、自分の将来に希望を持っている人は、6割しかいない。活力は失われていくばかりである。

 若者には、心の拠り所となるものがない。何のために生きればよいのか、何を求めて生きればよいのかが、若者にはわからない。若者は、自己の実現のための手だてを教えられてはいないのである。マズローの言うように、自己実現のためには、自己超越が必要である。他者への献身のために自らを忘れることなくして、人は自己実現には至らない。他者とともに生きる社会あるいは国への献身が、自己実現の道なのである。

 目指すものがあるときに、人はやる気を発揮し、よりよい生産を行う。ピーター・ドラッカーは、人は自らの仕事に誇りをもつとき、成長すると述べている。「自動車のドアの蝶番の生産は、飛行機のコックピットのそれよりはドラマ性に欠ける。しかし自動車の蝶番の生産さえ、それが何であり何のためのものなのかを知るならば、仕事の意味と満足感が違ってくる。」自分の仕事が、世のため、人のため、日本のために貢献していると実感できるとき、人は前に進もうと思えるようになる。

 自分の仕事に誇りがなければ、その仕事に没頭しようとは思わないだろう。同じように、国に対する誇りがなければ、国を発展させようとは思わない。すなわち、日本の発展のためには、愛国心が必要なのである。自己のアイデンティティを日本にもつとき、人は日本の発展のために、力を注ぐようになるのである。

愛国心を健全に育むために

 筆者が大学生の頃は、愛国心を掲げようものなら、友人知人から変人扱いされたものだ。しかし、地域のためとか、社会のためという言葉は、大いに歓迎されていた。

 愛国心とこれらの言葉の違い、郷土愛と地域貢献、愛国と社会貢献の違いは、自己犠牲の心があるかどうかにある。愛とは見返りを求めず、他者に与えるものである。愛国心とは、自らの利益を度外視して、国の人々のために、徳を発揮することである。単に好きであることと、愛していることの間には、貢献意欲において雲泥の差がある。

 マハティール首相の言うように、愛国心とは国家主義や軍国主義のことではない。「軍国主義はよくないことだが、愛国主義的であることは悪いことではない。愛国主義は国が困難を乗り越える上で助けになる。祖国を守ることと攻撃的な軍国主義は同義語ではない。」マスコミや専門家は、意図的に両者を混同しようとする。しかし、国を愛するがゆえに軍国主義が生まれるのではない。ならず者が愛国心を利用するとき、軍国主義が生まれるのである。悪いのは愛国心ではなく、ならず者である。

 したがってまた、愛国心とは国家機構 state への愛ではない。例えば軍国主義は、個人の自由意思を制限する体制である。目的の達成のために、強い統制を必要とせざるを得ないからである。しかし、自由意思なきところに道徳はない。行動を外的に統制されるとき、自らの心の赴くところに従って行動することはできなくなる。したがって愛国心は、軍国主義の正反対に位置づけられる。あるいは、軍国主義における愛国心は、権力への盲信の別名である。

 愛国心は、徳の一つである。そして徳は、相互に補うことなくして、正しく機能しない。とりわけ愛国心は、権力と結びつきやすく、不正な人に利用されやすい。愛国心を健全なものとするためには、正しさを知る人による、不正な人へのチェック機能が必要となるのである。道徳なき国家において、愛国心は軍国主義へと変容していく。健全な道徳心が、権力者の暴走に歯止めをかけるのである。

 愛国心は、やる気の源泉である。日本を守るため、よりよいものを生み出そうという意欲のみなもとである。この国の未来を描き、それに向けて能力を発揮しようという活力をもつとき、経済は成長を遂げる。懸命に働き、よりよい生産を実現し、人々に幸福をもたらすことになるのである。

 「どうかいつまでもアジアの力となり、手を差し伸べてほしい。今こそ日本に、リーダーシップを発揮してほしいのです。」マハティール首相の言葉を、われわれ日本人は、心で受け止めなければならない。