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高い成果を上げている組織にミスが多い理由

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(写真:ロイター/アフロ)

 不正についてのニュースが世間を賑わしている。製造業におけるデータ改竄や芸能人の不倫、政治家の横領といった様々なところで、いわゆる不正が取り沙汰され、「悪」が糾弾されている。不正を犯した人はいずれも、二度とこのようなことがないように努めますと公衆の面前で深々とお辞儀をし、大勢のマスコミによるカメラのフラッシュに晒されることになる。

 悪いことをしたのだから報いを受けるのは当然だ、と言われるかもしれない。たしかにその通りだ。しかし、人が不正をし、「悪」をなすのは、その人がそのような状況に追いやられているからである。つまり、不正をなさざるを得ない状況が、人の不正を招いているのである。成果を上げなければならない。健全なイメージを保たなければならない。ミスをなくさなければならない。諸々のルールを守らなければならない。より多くのお金を、地位や名誉を、満足を、得つづけなければならない。そうした外的な圧力、「でなければならない」という目に見えぬ強制が、その人の心を蝕み、そこから逃れるための不正を生み出してしまう。いわば不正は、個人の問題というよりは、環境の問題である。あるいは、その不正を招いた経緯、プロセスのほうに問題があったのである。

 不正は正されなければならないし、不正をなした者は責められてしかるべきである。さもなければ、不正をなさないよう努める姿勢は失われてしまう。しかしながら昨今、その報いは、あまりにも行き過ぎているように思う。ひとたび報道に取り上げられれば、信用は失墜し、再び浮かび上がることはきわめて困難になる。過去の努力が水の泡となり、人生を棒に振ることになるのである。そのような世の中で、本当に皆が幸せを感じられるといえるだろうか。安心して生きていくことができるだろうか。

 実のところ不正は、大きな悪は、小さな不正、失敗、ミスを認めてこなかった結果である。人の弱さ、本性を受け入れてこなかった結果である。はっきり言ってしまえば、人は不正をなす動物なのである。その前提から始めなければ、これからも不正を減らすことはできない。改善は、なされないのである。

失敗の先に成果がある

 ハーバード・ビジネススクールのエイミー・エドモンドソン教授は、看護婦の薬物投与ミスに関する調査において、有能な主任が指揮するチームは、最低の主任が指揮するチームの10倍もミスが多いことを発見した。前者のチームは、自分のミスを認めても「安全」であると感じていたため、ささいなミスに関しても正確に報告していたからである。対して後者のチームには「恐怖」がはびこっており、ミスは許されない、クビになってしまうと恐れるあまり、ミスを隠蔽していた。高い成果ではなく、保身のための自己弁護が、そのチームの隠蔽体質をつくり上げてしまったのである。

 よく知られているように、ハインリッヒの法則とは、重大な事故が1件発生するのは、背後に29件の軽微な事故が、300件の事故にはならない異常が存在するからだとする経験則である。したがって、重大な事故を発生させないためには、300の異常、ミスのほうを改善していけばよいというのが、ここにおける考え方である。もしも異常、ミスそのものが認められず、結果として隠蔽されてしまえば、いずれ大きな問題が発覚することは必然である。恐怖や不安が、不正を生み出すのである。

 いかなる事故も起こしたくなければ、部屋から一歩も出ないことである。人は行動しなければ、失敗することはないし、誰からも責められることはない。アリストテレスの言うように、批判は、何も言わず、何もやらず、何者でもなくなることで、容易に回避できるのである。仕事は行動することによって成果を上げることであるから、行為の結果としてのミスや失敗を咎めていては、成果は上がらなくなる。あるいはまた、弱き存在である人間は、恐怖から逃れようと、失敗の許される環境のほうに自ずと移っていくだろう。

 人間は、一つの心しかもっていない。そのため、ある行為の領域における不安は、それとは別の行為領域における不正を招く。家族に対する八つ当たりとか、ストレス発散による悪事が、これである。悪の反対にある善とは、よい行いのことである。善をなすには、自らの内にある周囲によい影響を与える力、「徳」を発揮する必要がある。失敗を咎められ、「徳」を発揮することが許されなければ、人の心は健全ではありえない。そうであるから「徳」の道は、人を裁くことではなく、人を許すことに通ずる。人となりの正しさを追求できるようになることが、「徳」の道の目指すところである。

 挑戦志向の人間は、失敗の恐怖を感じない人間ではないし、ましてや心の強い人間でもない。たとえ失敗する恐怖を感じようとも、到達する地点を見定め、自らの「徳」を発揮して、小さな一歩を踏み出そうとする前向きな人間のことである。何事かに対する挑戦は、それ自体、大きな不安を伴う。したがって、人を何かに挑戦させるためには、できる限り失敗したときの身の保証、安心を与えてやることである。その人の善をなす自由、「徳」を発揮する自由を認めてやることである。そうしたときに人は、恐れを取り払い、前に向かって進むことができるようになる。よき人間として振る舞うことができるようになるのである。

失敗が多いことは悪ではない

 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい。」ヨハネの福音書第8章にある、有名な一節である。

 全くのところ、ミスや失敗は悪ではない。ミスがないのは、ただミスをする余地のないことをやっているだけのことである。新しいことに挑戦すれば、例外なく、必ず、絶対に、ミスをする。挑戦が多ければ多いほど、ミスもまた多くなる。しかし、ミスがあれば、次には改善がなされる。結果として、人の三倍の挑戦をしていても、ミスを二倍に留めることができるようになる。人間は、いまはだめでも、成長することができる。成長する機会さえ与えられれば、正しくなることができるのである。

 ミスを認めない社会は、人を排除する社会であろう。わが国は、そのような社会へと転じつつあるように思う。しかし元来、人は力さえあれば、どこかで生きていける。よい仕事さえできれば、これからも生きていけるのである。だから、あまりミスや失敗を恐れずに、色々とやってみたほうがいい。力をつけ、成長することを目指したほうが、心の安定を得ることができ、不正から逃れることもまたできるのである。

 「行きなさい。これからはもう、罪を犯してはならない。」許されざる社会は、人の成長を阻む社会である。ゆえに、発展することを諦めた社会である。

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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