戦後70年総理談話に関して有識者懇談会報告が出されたが、中国関係部分は認識不足が目立ち、これが総理談話に影響し、これからの日本国民の利害を決定していくのかと暗澹たる思いだ。これで歴史認識を語れるのか?

◆そもそも基本用語がまちがっている

細かなことから入って申し訳ないが、中国の歴史認識カードの核心を成している単語なので、それがまちがっていたのでは話にならないので、まずご指摘したい。

ひとつは「抗日教育」――。

これは「反日教育」の間違いだ。

抗日とは、「抗日戦争」のことを指し、「抗日戦争」とは「日本の侵略戦争に抗して戦う戦争」のことを意味する。

したがって、そもそも「抗日教育」などという概念自体が存在しない。

もし江沢民以降の教育を言いたいのなら「反日教育」という言葉を使わなければならない。

われわれは今、中国(や韓国)が厳しく突き付けてくる歴史認識問題を「新たな課題」として、日本としての回答を出そうとしているのではないのか。さもなかったら、既に出ている村山談話に対して、わざわざ改めて総理談話など出す必要が存在しない。そのようなことをすれば、「寝ていた子を起こすようなもの」となり、新たな摩擦を招くだけだからである。

となれば、村山談話が出された1995年以降の中国の変化に対応しなければならないのであって、まさにその年から中国で起きた変化は、江沢民が94年から始めた愛国主義教育の中に95年から「反日教育的要素」を強化し始めたことが最大の原因である。

つぎに基本的用語の不適切さとして挙げられるのが「一党独裁」という言葉である。

日常会話的に「中国は一党独裁の国家だからねぇ…」といった種類のことを言うのは、まあ、普通であるとしても、国内外に公開されるであろう報告書に「中国共産党一党独裁」という単語を用いるのは如何なものか。

たしかに中国は共産党が圧倒的力で支配している国である。しかし一応、中国共産党以外の八大民主党派があり、いずれも選挙で選ばれている。

まず中国共産党。8600万人を越える党員がいるが、中国共産党代表大会に関しては、村のレベルから始まって8600万人の中から代表を選出し、最後には中国共産党中央委員会政治局常務委員(現在はチャイナ・セブン)を選んで国家の最高権力者を決定する。

一方、立法機関である全人代(全国人民代表大会)やその諮問機関である全国政協に関しては、選挙権を持つ全ての中国公民による選挙によって代表を選び、全人代と全国政協の代表(各3000名ほど)が決定する。全人代における中国共産党員の割合は非共産党員よりも多いが、全国政協における中国共産党員の割合は、非共産党員よりも少ない。

この政治体制を公式文書で「一党独裁」と定義づけるのは困難で、正式には「一党専制」、日常的には「一党支配」という言葉を選ぶのが適切で、いわゆる選挙のない「独裁」とは異なるため、中国も必死になって読むであろう報告書に「独裁」という、庶民的(素人的)感覚の用語を用いるのは、余計な摩擦を招く意味で、適切でない。

◆毛沢東は反日教育をしていない!

有識者懇談会報告書(以後、報告書)の4の「(1)中国との和解の70年」の「ア 終戦から国交正常化まで」の文章は、ほとんどまちがっていると言わざるを得ない。

まず前項の続きで、「一方、中華人民共和国に目を向けると、1950年代半ばに共産党一党独裁が確立され、共産党は日本に厳しい歴史教育、いわゆる抗日教育を行うようになった」という文言があるが、これは中国という国家の根本をご存じないとしか言いようがない。

毛沢東は「日本に厳しい歴史教育や反日教育」など、まったくしてない!

そこに日本人の中国に対する「歴史認識問題の根本的知識の欠如」がある。

毛沢東が重視したのは「アメリカの対中包囲網」であって、当時中国のすべての街角に張られていたポスターは「トルーマンと吉田茂が血の滴るドルと武器を持った絵」だった。トルーマンに関する歌も創られ、小学校でさえ、毎日歌わされた。

日中戦争時代、中国的に言えば抗日戦争時代、毛沢東は延安の高地に陣取って「抗日運動」の宣伝だけはさせたが、「絶対に抗日戦争を最前線で戦ってはならない」と中共軍(八路軍および新四軍)に命令していた。詳細は8月3日の本コラム兵力の10%しか抗日に使うな!――抗日戦争時の毛沢東に書いた。

前線で大きな戦いをすれば、日本軍に中共軍は強いと分かってしまい、日本軍の攻撃を受けるからだ。

毛沢東がめざしたのは日本敗戦後の覇者であって、国民党軍の蒋介石をやっつけることである。抗日戦争時代は、そのための長期的戦略を練っていたので、新中国(中華人民共和国)誕生後は、「厳しい歴史教育や反日教育」などは、全くやっていないのである。

報告書は、この基本認識を間違っているので、全体としてミスリードをしている。

◆毛沢東は、過去を語るのを極端に嫌った!

新中国誕生後の1950年代半ば、毛沢東は元軍人の訪中団を組織してくれと、遠藤三郎・元陸軍中将に頼んでいる。結果、遠藤三郎氏が15人の元軍人訪中団を組織して訪中し毛沢東に会うと、毛沢東は

「日本の軍閥が中国に進攻してきたことに感謝する。さもなかったらわれわれは今まだ、北京に到達していませんよ」

と言い、

「あなたたちはわれわれの先生です。われわれはあなたたちに感謝しなければなりません。まさにあなたたちがこの戦争を起こしたからこそ、中国人民を教育することができ、まるで砂のように散らばっていた中国人民を団結させることができたのです」

と言った。

遠藤三郎氏は多くの手記を残しているが、軍人代表団の中の多くが「毛沢東および周りの指導層が、(日中戦争に関する)過去の話に触れることを非常にきらっている」と、感想を記している。

なぜなら毛沢東は日中戦争において中共軍が前面に出て日本軍と戦わなかった事実を表面化されたくなかったからだ。

日中戦争時代、西安事変(1936年)以降、中共軍は国民党軍と国共合作をしていたが、毛沢東は最初から、日本敗戦の布陣に備えて、「いかにして有利に国民党軍を打倒し、自分が天下を取るか」にしか強い関心を持っていなかった。

過去の日本軍が起こした具体的な侵略行為に関して教科書で教えてもいいと公式に認められたのは、毛沢東逝去後で改革開放が始まった1979年以降なのである。

このような基本的なことも正確には認識せずに報告書が書かれているのは、実に危険だ。

◆敗戦後、日本軍民を帰国させたのは国民党軍の蒋介石

報告書の4の(1)のア冒頭には、「極東軍事裁判や対日占領対策において厳しい対日姿勢を示した中国政府も、大戦後中国に留まっていた日本の一般塀に対しては武装を解除し、民間人と共に引き揚げさせた」とある。

これも実に史実を曖昧模糊とさせて混同しており、むしろ間違いだと言っていいだろう。

軍民200万人以上を日本敗戦後1年以内に日本に帰国させたのは「中華民国」の主席・蒋介石であって、この事業に心血を注いだために、そのあとに続く国共内戦でスタートから不利に追い込まれている。

ポツダム宣言では、中国にいる元日本軍の武装解除をする権限を持っていたのは「中華民国」重慶政府の国民党軍であって、「中華民国」を倒そうと素早く動き始めた毛沢東の中共軍ではない。

しかし、中共軍は7月27日付本コラム中国の空軍を創ったのは元日本軍に一部触れたように、蒋介石の命令に従わず日本兵を捕虜にして利用し、1950年代後半まで日本に帰国させなかった。

報告書はいたるところで日本敗戦後の「中国」に関する認識を混同しており、多くの混乱が見られる。

たとえば「中華民国」と「中華人民共和国」を区別せず、ただ単に「中国政府」と書いている。中華人民共和国は日本敗戦後の1949年10月に初めてこの世に誕生した国であり、日本が戦ったのは「中華民国」であることを、まず明確に区別して認識すべきだ。さらに対中包囲網が形成されたのは、1950年に朝鮮戦争が始まったからなのである。

報告書は、これらが混然一体となって「中国政府」という言葉を用いて敗戦後の「中国」の対日政策を論じている。

このようなことで、正確な「歴史認識」を踏まえた、国際的にも通用する総理談話を導くことができるのか懸念する。

(その他、多くのことを指摘したいが、とても一回のコラムでは書ききれないので、今回はここまでに留める。)