終戦の日 親日国モンゴルの原点となった抑留日本兵慰霊碑を関西の企業経営者らが訪れたわけ

モンゴルの日本人抑留者慰霊碑を訪れた企業経営者らの一行(撮影・相澤冬樹)

 8月15日、74回目の終戦の日。日本を遠く離れたモンゴルの首都ウランバートルの郊外。緑に覆われた小高い丘の中腹にある慰霊碑を、関西の企業経営者らの一行が訪れた。

 終戦後、ソ連軍の捕虜となった日本軍兵士らがシベリアなどに送られ、過酷な労働を強制されたシベリア抑留。その中には、ソ連の友好国だったモンゴルに送られた兵士もいた。1万2000人以上が抑留され、モンゴルの酷寒の冬と重労働に耐えられず、およそ1500人が亡くなったという。この慰霊碑は、モンゴルに抑留され犠牲となった人たちの霊を慰めるため日本政府が設けた。

青年海外協力隊員としてモンゴルにいた安藤弘晃さん(撮影・相澤冬樹)
青年海外協力隊員としてモンゴルにいた安藤弘晃さん(撮影・相澤冬樹)

 企業経営者らは、いずれも成長著しいモンゴルでビジネスチャンスをつかもうと訪れている。ビジネスと無縁に思えるこの慰霊碑をなぜ訪れたのか?日本から一行を案内してきたコンサルタント会社経営、安藤弘晃さん(38)は語る。「これがモンゴルが親日国となった原点と言えるからですよ。モンゴルに進出するなら、ぜひモンゴルに日本人慰霊碑があることを知っておいてほしい」

モンゴルの人に語り継がれる日本人抑留者の仕事ぶり

安藤さんのビジネスパートナー、バットさん(撮影・相澤冬樹)
安藤さんのビジネスパートナー、バットさん(撮影・相澤冬樹)

 モンゴルに抑留された日本人兵士らは、国造りのため様々な建設工事に従事させられた。安藤さんのモンゴルでのビジネスパートナーで、今回のツアーの受け入れ役を務めている実業家のウールド・ムンフバットさん(42)、通称バットさんはこう説明する。

日本人抑留者が70年以上前に建てたオペラ劇場(撮影・相澤冬樹)
日本人抑留者が70年以上前に建てたオペラ劇場(撮影・相澤冬樹)

「日本人抑留者は、厳しい環境の中でも一生懸命に働いたそうです。おばあさんから聞いたことがあります。手抜き工事をしてもおかしくないのに、まじめに仕事をして、立派な建物を残してくれました」

日本ゆかりの蝶々夫人も上演(撮影・相澤冬樹)
日本ゆかりの蝶々夫人も上演(撮影・相澤冬樹)

「例えばウランバートルの中心部、スフバートル広場に面して、ピンクの外壁の建物があります。これはオペラ劇場で、日本人抑留者が建てたものなんです。70年以上がたった今も現役で、日本にゆかりのあるオペラ『蝶々夫人』も上演されたことがあります」

「その近くにあるモンゴル外務省の建物も、抑留者が建てたものです。この建物も今も使われています。まじめに働いて立派な建物を残した抑留者が、モンゴルで日本人のイメージを高めたんです」

モンゴル外務省の建物も今も現役(撮影・相澤冬樹)
モンゴル外務省の建物も今も現役(撮影・相澤冬樹)

台湾以上に親日の国

 モンゴルに駐在していたJICAの前の所長は、モンゴル人の日本に対する感情についてこう語ったことがある。「モンゴルの人は台湾の人以上に親日的ですよ」

 世界でも有数の親日感情がある台湾を上回るというのだから、モンゴルは世界一と言ってもいいほどの親日国なのだろう。このことは日本企業が進出するにあたってメリットが大きいとJICAの担当者は言う。そのことは、安藤さんが日本の企業経営者にモンゴルへの進出を勧める大きな理由の一つになっている。

モンゴルと日本のビジネスの架け橋に

 安藤さんは兵庫県尼崎市在住。器械体操の選手だった経歴を生かし、20歳の時に青年海外協力隊の一員としてモンゴルに体操の指導にやってきた。モンゴル語を一から学び、2年余りの滞在でモンゴルが大好きになった。その時に、モンゴル人実業家のバットさんと知り合い、親しくなった。日本に帰国し、関西で整骨院を経営するようになってからも2人のつながりは続き、今回、日本企業のモンゴル進出を橋渡しする会社を共同で立ち上げた。

安藤さんとバットさんは深い信頼関係で結ばれている(撮影・相澤冬樹)
安藤さんとバットさんは深い信頼関係で結ばれている(撮影・相澤冬樹)

 バットさんは、高校卒業後に来日して日本語学校で学び、通常の入試を受けて桜美林大学に入学した。大学卒業後はモンゴルに戻り、建設ラッシュに沸く母国で内装工事の会社を設立して成功。今では多角的に様々な事業を展開している。バットさんも、安藤さんとの共同事業を軌道に乗せて自らのビジネスの起爆剤にしたいと考えている。

モンゴル人にとっての日本との戦争とは?

 バットさんは慰霊碑の一角で何やら白い液体を注ぎ始めた。ミルクだ。「モンゴルではミルクはきれいなものの象徴です。日本人がお墓に水やお酒を注ぐように、モンゴルではミルクを注ぎます」

墓や慰霊碑にミルクを注ぐのはモンゴルの慣習(撮影・相澤冬樹)
墓や慰霊碑にミルクを注ぐのはモンゴルの慣習(撮影・相澤冬樹)

 日本語はほぼ自由に操れるバットさんだが、8月15日が終戦の日だと言っても「そうなの?」という感じでピンとこない。それもそのはずで、モンゴルはソ連の対日参戦の直後に参戦したが、数日後には戦争が終わっている。先の大戦で日本と戦ったという実感がないのである。

 それよりモンゴル人にとって戦争と言えば1939年の「ハルハ河戦争」だ。日本人には聞き慣れないが「ノモンハン事件」のことだ。当時の満州国とモンゴルの国境紛争が、満州駐留の日本軍とソ連・モンゴル軍の全面対決になり、日本軍は大敗して多大な犠牲を出した。事件と言うよりまさに戦争で、モンゴル人なら誰もが知っている。そして、この戦争は当然のことながら対日感情を悪化させたはずだが、それが日本人抑留者の仕事ぶりによって好転したということのようだ。同じ話を複数のモンゴル人とモンゴル在住日本人から聞いた。

夏になると多くの日本人が慰霊碑を訪れる

氷点下30度から40度にもなるモンゴルの冬を耐えられなかった(撮影・相澤冬樹)
氷点下30度から40度にもなるモンゴルの冬を耐えられなかった(撮影・相澤冬樹)

 慰霊碑の手前にはこじんまりとした資料館がある。過酷な環境の中で大勢の抑留者が犠牲になったこと、モンゴルの社会主義体制が終わった後、日本政府がすべての遺骨を改めて荼毘に付して祖国に送り返したことなどが記されている。毎年夏になると日本からお参りに訪れる人が増えるそうだ。記帳のノートにも多くの日本人の名前が書かれている。

記帳する安藤さん(撮影・相澤冬樹)
記帳する安藤さん(撮影・相澤冬樹)

 安藤さんは以前もここを訪れたことがある。「だいぶ変わりましたよ。大勢の日本人が来ていることがわかってよかった。亡くなった方の冥福をお祈りしました」

「世界中を相手に戦争したことを実感」

 安藤さんとともにモンゴルを訪れた増富忠義さん(57)は、兵庫県西宮市に本社を置く企業グループの社長。今回は飲食チェーンのモンゴルでの展開を見据えて参加した。慰霊碑を訪れた感想については…

増富忠義さんは仏像の前で犠牲者の冥福を祈った(撮影・相澤冬樹)
増富忠義さんは仏像の前で犠牲者の冥福を祈った(撮影・相澤冬樹)

「終戦の日ですからね。日本人として訪れることができて良かったです。でも、こんなところまで、というと語弊があるけど、本当に日本は世界中を相手に戦争をしたんだなあ、ということを実感しますね」

抑留者の見事な働きぶりは国策の過ちを免罪しない

殉難する人を出さないのが政治の使命(撮影・相澤冬樹)
殉難する人を出さないのが政治の使命(撮影・相澤冬樹)

 抑留者の働きぶりが今のモンゴルの親日感情のもとになったとしても、抑留者の過酷な運命が不当なものであったことに変わりはない。それは直接的にはソ連の参戦と強制労働によるが、その大本には日本が起こした無謀な戦争があった。

 国が道を誤るといかに国民を不幸にするか。8月15日の終戦の日、経営者らの一行とともにモンゴルの日本人抑留者慰霊碑を訪れて、思いを新たにした。

【執筆・相澤冬樹】

慰霊碑からウランバートル郊外の住宅地を見下ろす(撮影・相澤冬樹)
慰霊碑からウランバートル郊外の住宅地を見下ろす(撮影・相澤冬樹)