600万人分の納骨堂や幽霊駅ほか、パリの地下に広がる「闇の都」のディープな歴史
「光の都」のもう一つの顔、地下墓地の「カタコンブ」から『レ・ミゼラブル』でも使われた下水道まで
フランスの首都パリの伝説的なモニュメントや荘厳な教会、その他の象徴的な場所をつくりだしているのは、中世以降、広大な迷路のような地下の採石場から掘り出された石灰岩だ。時間の経過とともに放棄されたトンネルは全長300キロを超え、立ち入りを厳しく制限されてきた。 ギャラリー:600万人分の納骨堂ほか、パリの地下は「闇の都」 写真6点 しかし、「カタフィル」と呼ばれる都市探検家たちは、歩道のマンホールや秘密の扉から地下の迷宮に侵入したいという誘惑に勝つことができない。そして、彼らの物語は伝説になった。古い採石場は、壁に落書きがされ、夜のディスコ、非合法なアートショー、秘密の映画会の会場となってきた。「光の都」パリの地下に秘められた、「闇の都」のディープな歴史をご案内しよう。
「止まれ! ここは死の帝国だ」
「カタフィル」という言葉は、放棄された採石場の一角につくられた世界最大級の納骨堂があるカタコンブ(地下墓地)に由来する。パリ南部14区の地下に広がる全長約1.7キロのカタコンブには、推定600万のパリ市民の遺骨が納められている。地下トンネルを合法的に探検できる唯一の場所として観光名所になっている。 パリのカタコンブの起源は、1774年の劇的な出来事にさかのぼる。現在のダンフェール=ロシュロー大通り沿いで陥没事故が起き、家々を飲み込んだのだ。 首都直下に張り巡らされた採石場は不安定で、崩壊の危険性があった。さらなる災難を回避するため、国王ルイ16世は1777年、建築家のシャルル・アクセル・ギヨモーを採石場監督官に任命し、地下通路の地図の作製と安全の確保にあたらせた。 数年後、ランジュリー通りで不気味な光景が繰り広げられた。10世紀からパリの主要な埋葬地であり続け、死体であふれかえっていたサン・イノサン墓地の重みで隣接していた地下室の壁が崩壊し、腐乱死体があふれ出したのだ。 この出来事をきっかけに、不衛生で過密だった墓地は使用禁止になり、国王は郊外に新しい墓地を建設するよう命じた。遺骨は掘り起こされ、古代ローマのカタコンベ(地下墓地)から着想を得た地下の新しい安置所に移された。 採石場監督官の指揮の下、頭骨、脛骨(けいこつ)、大腿(だいたい)骨が安置所の壁に整然と並べられた。プレートには、骨が埋葬されていた墓地と安置所に移された日付が刻まれている。 パリのカタコンブが一般公開されたのは1809年だ。地下墓地の入り口には、「止まれ! ここは死の帝国だ」と記されている。オーストリア皇帝フランツ2世やフランス皇帝ナポレオン3世も訪れるほど、カタコンブは大流行した。 1897年には、オーケストラがフレデリック・ショパンの「葬送行進曲」などを演奏し、大観衆が詰めかけた。 有名写真家ナダール(本名ガスパール・フェリックス・トゥールナション)は1861年に3カ月かけて、当時開発されたばかりの人工光源を使ってカタコンブを撮影した。科学者たちは漆黒の闇に生息する動植物をこぞって調査し、博物学者のアルマン・ビレがトンネルに暮らす甲殻類を発見した。 「適切な条件下では、骨は長期間にわたって保存できます。とはいえ、もろいことに変わりはありません」とカタコンブの管理責任者イザベル・クナフ氏は話す。カタコンブの持続可能性を確保するため、2023年秋に大規模な修復プロジェクトが始動した。2026年には観光客向けの新しい体験が始まる予定だ。