自分を虐待した母を「救いたかった」女性の半生。“不幸菌”をうつす気がして「友人の子どもにも触れない」
X(旧Twitter)のスペースで流れてくるその女性の声は清涼感があり、聞く者を心地よさで包む独特の柔らかみがある。のしいか(@nosiikasan)さんだ。リスナーひとりひとりの名前を呼んで挨拶を欠かさない。落ち着いたトーンで、ゆっくりと語りかける。 その静寂さと裏腹に、彼女の半生は激動に満ちている。虐待される日々を必死で生き抜いた、虐待サバイバーだ。だが彼女は言う。「虐待を逃れて生き延びても、“虐待の終わり”は来ないんです」と。壮絶な日々とその後遺症に悩む姿を追った。
母の憂さ晴らしで虐待されていた幼少期
のしいかさんが生まれたのは関西地方。軽快なテンポで話す言葉のなかに、どきりとするワードが混じる。 「はっきりと家庭内の雰囲気が変わったと感じたのは、私が小学校に入学してからです。小1の健康診断で先天性心疾患を指摘され、手術を伴う入院を経験しました。退院すると、明らかに母の様子がおかしくなったんです。私を無視することが増え、やがて手をあげられることが多くなりました。 父はギャンブル依存症で、たびたび母を罵倒したり手をあげたりすることがありました。『心臓に欠陥があるのは、お前がまともに産まなかったからや』と母にあたっているのをみました。おそらくですが、その憂さを晴らすために、母は私を虐待したのだと思います。 平手打ち、ハンガーで殴るなどは当たり前で、タバコやアイロンを尻につけられ、いつも私は火傷を負っていました。また、一度だけですが、笛吹ケトルの熱湯を足の甲にかけられたことがあります。それ以来、私は笛吹ケトルの音を聞くだけで情緒がおかしくなってしまいました」
教室でも「いつもビクビクして過ごしていた」
のしいかさんの母親は我が娘を虐待することで、夫からの理不尽さに耐えたようにも思える。彼女を支えたのはもう一つ、酒だった。 「母はアルコール依存症でした。たとえば幼稚園のときも、酔いつぶれて迎えに来ないことがありました。暴力を振るうときは決まって飲んでいましたが、徐々に私が成長してくると、酔っぱらい相手なので逃げようと思えば逃げられるようになるんですよね。そのうち、酔って攻撃してくる母が可哀想に思えて。突き飛ばしたりすれば勝てるのでしょうけれども、あえて耐えるようなこともありました」 家庭でいつ暴力を振るわれるかもわからない幼少期、学校もまた居場所にはならなかった。 「まだ小学生のころは、いつもビクビクして過ごしていました。教師からすれば気に食わない児童だったのだと思います。くわえて、私はいつもお尻に火傷をしていて、椅子にきちんと座ることができませんでした。それを同級生に指摘されるなどして、どんどん『いじめてもいい存在』になっていきました。学校にも私の居場所はなかったんです」 そんな学校でも、唯一居場所と呼べるところがあった。 「図書室ですね。意外と人が少ないんです。昔から本が好きでしたので、外の世界に辛いことが多い私は、没頭することができました」