ゲストハウスは「生き方」。だからぶれない──苦境に向き合うオーナーたちの知恵【#コロナとどう暮らす】
沖縄に自分の居場所を作りたかった
結家の共同自粛生活はちょっとユニークだ。日置さんは言う。 「『100日後に死ぬワニ』ってはやったじゃないですか。どうせ自粛するなら、私たちは100日後にめちゃくちゃ健康になってやろうって」 5月半ばの取材時に滞在していたのは、隣町のカフェに勤めるめぐさん(32)と、沖縄に就職した娘を訪ねて来て、コロナ禍で帰るに帰れなくなってしまったせいじさん(62)の2人。 日置さんたち3人は、朝は8時にヨガをして、散歩に出る。その後は、掃除をしたり、海で泳いだりして各々過ごす。食事は、自家製の発酵食品や近所でとれた農作物が中心。体重やBMIをチェックし、毎日の検温も欠かさない。 滞在者たちのスキルや興味を磨き、教え合う活動にも精力的だ。たとえば、めぐさんのパン作りの技や、日置さんの特技のタイマッサージや野草の知識などを生活に取り入れていく。結家ではそれらを「部活動」と呼ぶ。 「今帰仁村にはもともと、余った野菜などを交換し合う文化があります。だから私たちも、相手に何かしてもらったら、返せる何か具体的なものを持っていたいと思ったんです。部活動もそこにつながっているんです。みんなで持ち寄って幸せになりたい」 日置さんには、「地元の役に立ちたい」という強い気持ちがある。それは、彼女が沖縄に惚れ込み、移住してきた経歴とつながっている。 日置さんは、学生の頃から、自己表現と居場所について考え続けてきた。大阪の美大を卒業して、選んだ道はサーカスの芸人だった。アクロバット芸や司会をしながら、仲間とともに全国を旅した。それは、自己表現と居場所の獲得を両立できる場所だった。 芸人生活にも慣れてきた23歳のとき、公演で訪れた沖縄に惚れ込んだ。それから5年半、団員を続けてお金をためながら、沖縄で暮らすために自分に何ができるかを考えた。 「旅芸人だったので、旅人が求めるものと沖縄が求めるものを結び合わせるような仕事ができたらいいなと思った。ゲストハウスという形が自分のなかで見つかって、ようやく沖縄にくる決心がついたんです」 2003年、29歳のときにサーカスをやめて、今帰仁村に移住した。そして結家をオープン。2011年に現在の場所に土地を買って引っ越した。何もない草原に1.5メートルの盛り土をして、電線を引くところからのスタート。建物の躯体はプロに頼んだが、内装や家具はほとんど仲間うちで作った。 「もともとそんな感じでやってきたので、壊れたら自分の手で直せばいい。コロナというと、不景気な話、暗い話ばっかりになりがちだから、どうしたら楽しくなるかを考えたい」 現在は通常のゲストハウス営業に戻っているが、予約者には宿泊日の5日前から検温動画の送信をお願いするなど、慎重に営業している。