《アルゼンチン》寄稿=水村美苗著『大使とその妻』とブラジル日系社会との関係=ブエノスアイレス在住 相川知子
『大使とその妻』は、12年ぶりに去る9月末に上梓された水村美苗の小説で、上、下巻にわかれ、600ページ以上に及ぶ長編小説である。
「失われた日本」への愛惜と異文化からの視点
小説の語り手の米国人ケヴィン・シーアンは伝統的な日本文化や日本人の美徳を追求し「失われた日本」を英語でオンラインサイトに記録し、軽井沢の追分に日本の「方丈記」にちなんで「方丈庵」と名づけた山荘で夏を過ごす。 その隣、ケヴィンが蓬生の宿(よもぎうのやど)と源氏物語にちなんで名付けた場所に、ある日、京都の宮大工が出入りし、作り上げた見事な日本建築に元大使夫妻の篠田周一・貴子夫妻が越してくる。ここから物語は展開を見せるようである。 しかし、実は『大使とその妻』という小説はその題名から、この大使が中心人物なのか、語り手のケヴィンが主人公なのか、もしくは「その」とふしぎな形容の「その妻」なのか、まずは題名からして不可思議なところから水村美苗の物語が始まっているのだ。 日本文化に対する深い愛情と懐旧の思いと同時に、世界が均一そして均質化へ向かっていることに日本語と日本文化の視点からの抵抗が描かれていく。 ケヴィンがときには自身の日本語力では表現できない部分を英語で話したり、日本語が堪能にもかかわらず人々がその西洋的風貌を見て、英語で話しかけてくるのを冷ややかに見ていたのは日本の滞在の浅いうちで、現在はそれをあまり気にしなくなり、そのときどきの状況に応じて対応する。 また場合によっては「普通」の日本人以上に丁寧な言葉で人に接したり、また一方で日本人にそうされることに満足感を得るのと同時に深い憧憬の念を抱く。
日本のルーツと独自のアイデンティティ形成への道程/日系とNIKKEI
この様子はまるで日本に35年以上住んでいる在日ブラジル日系人の日本社会への溶け込み具合を思わせる。または、南米に移住した日本人家族が日本文化を持ち込む姿とも通じるところがある。この現状を単なる「アイデンティの問題」として片付けてよいものだろうか。 近年南米では日系は日本をルーツとすることをめぐるものよりもむしろ日本のルーツを持ちながら独自の存在となりつつある。日系と書かれたのがニッケイになり、スペイン語ではjaponés 、ポルトガル語ではjaponêsと訳されていたのが、アルファベットでそのままNikkeiと書かれるようになり、発音もニッケイの最後のイの表記はケから /nikee/ と発音されず /ke/i/になり、ややもするとIを強調しているのも日本語の流れを汲む語彙にも関わらず逆に分断を強調、すなわち独自のアイデンティティを形成しているようである。
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