《アルゼンチン》寄稿=水村美苗著『大使とその妻』とブラジル日系社会との関係=ブエノスアイレス在住 相川知子
水村美苗が描く「失われた日本」と日本語へのこだわり
どちらにしても『大使とその妻』は、筆者である水村美苗が幼いころ日本を離れアメリカで育ち、アメリカの大学を卒業しながらも、日本への望郷の念を忘れずに日本文学書を読みながら生きてきた背景が反映されている。 愛惜した日本はすでに存在しない今の日本に戻り、さらにそれ以前の明治の文豪である夏目漱石が絶筆とした『明暗』の続編を夏目漱石の小説手法で『続明暗』で文学界にデビューし、発表する作品はすべて名だたる賞を受けている。 英語のみならずフランス語も使えるのに、日本語に固執し日本語で書き、またその翻訳を自らの手で読むことができる作家として、その存在は他に類を見ないものである。 水村美苗は翻訳の問題にも深い関心を示しているようで、作品は一字一字から、一行一行、そして一頁一頁からこれでもかこれでもかと忘れ去られたはずの美しい表現が波のように押し寄せてくる。それを愛でるようになぞるように視線を走らせ読み進んでいく読者へ至福の時間を与えてくれる。それはまた翻訳者にとっても真の醍醐味であり、挑戦となる。 『母の遺産』で見せた『金色夜叉』や百人一首の引用に加え、今回の『大使とその妻』の出だしは『枕草子』を通して私たちの五感に訴えかけ、『源氏物語』の絵巻を開くかのように流れをつくり、谷崎潤一郎のような優美で雅な展開を見せる。 もちろん、どこかで学んだ国語の授業で必ず読んだような俳句や短歌だけではなく、かくも繊細なアメリカ出身者がいるのだろうかと思われせられる、日本人以上に日本人らしい存在であるケヴィンが心情を表して書くのではなく詠む歌に耳を傾ける。 そこには日本でありながら「今の日本」とは雲泥の差であり、またはきっとどこかにあるのだろうと、よく日本を羨望するいわゆる親日家であっても財を投じても手に入らないものですら感じられる「かくあるべき日本」がある。ここに紡ぎ出されるのは「普通」に日本で育っただけでは実は味わえないまた及ばない「別の日本」がある。
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