伊藤比呂美「靴下の中で、足には老いが溜まってるように見えた」
詩人の伊藤比呂美さんが『婦人公論』で連載している好評エッセイ「猫婆犬婆(ねこばばあ いぬばばあ)」。夫が亡くなり、娘たちも独立、伊藤さんは20年暮らしたアメリカから日本に戻ってきました。熊本で、犬3匹(クレイマー、チトー、ニコ)、猫2匹(メイ、テイラー)と暮らす日常を綴ります。Webオリジナルでお送りする今回は「指のささくれ足の深爪」。爪噛みの癖が抜けないという伊藤さん。ささくれのケアしているときに、ふと夫の事を思い出したそうで――。(文・写真=伊藤比呂美さん) 【写真】伊藤比呂美さんの愛犬、ニコ * * * * * * * 爪噛みの癖が抜けない。子どもの頃から、親や先生にうるさく言われていた。なぜ人はこんなに爪噛みをいやがるのか、昔から不思議だった。噛むのは自分の爪で、他人には迷惑をかけてない。みっともないと思うのは勝手だが、自分が思ってりゃいいことを噛んでる当人に押しつけてどうする? この頃は、誰にも何にも言われない。それだけでも年取った甲斐があるというもの。でもそういうわけで、若い頃からマニキュアをしたことがない。するそばからはがし食ってしまうのである。 今あたしは、指にささくれができて、痛くて仕方がない。痛いだけじゃなくて仕事ができない。しょっちゅうこうなる。季節的なものかストレスか、原因はわからない。 それでささくれに傷用の薬を塗り、バンドエイドを巻いてゴムの指サックをはめるのだが、サックが指先の感覚を鈍らせるから、仕事にならないのである。 こないだエキバンという液体のばんそうこうを見つけた。粘着する透明な液体はまるでセメダインで、そういう匂いがして、ソッコー固まるのである。バンドエイドとサックよりずっと便利だが、なにしろあたしは爪噛みで、その固まったエキバンも、ついつい、ささくれごと噛み取ってしまって、さらに痛いことになる。
そんなときに思い出したのは夫のこと。 彼の爪はあたしが切った。あるとき、かがめなくて足の爪が切れないと言ったのだ。歩けなくなってほとんど車椅子だった頃で、それでも弱音を吐くなんてめったになかったか ら、なんかいいなあと思って、やってあげると言うと、すなおに足を差し出したが、どの指も変形して、親指はものすごい肥厚爪。発酵しすぎた糠床とか巨木の切り株とか、そういう連想を次々にしたくなるモノだった。 あたしは彼の足を抱え、ぬるま湯に浸けてふやかし、大小の爪切りでつまみ切ったり押し切ったり、ヤスリでこすったりして、夫の爪と格闘した。 足の爪のことを考えていたら、母のことも思い出した。「巻き爪ができたんだよ」と母は何度も言っていた。「痛いのよ」とも言っていた。医者に行ってどうにかしてもらったんだと思う。まだ元気だった頃だ(数年後には寝たきりになった)。 あたしもいずれそうなるんだろう。 カリフォルニアにいたときには、かかとがひび割れていた。シャワーしかなくて、空気が乾燥していたせいだと思う。今はちゃんとお湯に浸かって軽石でこする。そもそも湿気があるから、ひび割れることはない。 でもこの頃は、足を人に見せるってことがないのである。だからほったらかし。かかとや足の爪を、お風呂で丹念にみがき立てることもない。だって誰にも見せないんだもん。