俳優・和田正人さんが語る箱根駅伝 日大時代に2度9区を疾走「月並みだけど青春でした」汗をかき、涙を流した日々
2年時の箱根デビューは緊張しっぱなし
――2年生でついに箱根駅伝デビューです。 和田 2年目にはチームの中心にはなれていたので、走るものだという位置づけでした。どの区間を走りたいというのはなかったのですが、9区を走ると聞いて、「そんなに長いところを走るんだ」と思ったのは覚えています。 やっぱり、復路って単独走になりがちですよね。単独で走るには実力はもちろん、経験値も大事。しかも、直前の全日本大学駅伝では単独走でミスをしているんです。それもあって単独走で行けるように練習していたので、取り返すチャンスだなって。 ――当日のことを覚えていますか。 和田 もう、完全に舞い上がっていました。中継所にはすごい選手がいるわけですよ。5位で来たのでふわふわしていましたね。想像以上に緊張しましたし、楽しむ余裕は全然なかった。自分のことに集中しないといけないのに…。中畑清さんが来ていたのを覚えていて、でかいなぁって(笑)。関係車両の多さとか、人の多さとか。一度、中継所に行ってほしいですね! 初めて全国高校駅伝に出た時と同じ感覚です。すごいところに放り出された。苦い思い出ってよく覚えているものですよね。良い走りはできなかったですが、ブレーキもせず。最低限の走りができて、先輩に安心してタスキをつなげました。 ――上級生になってチームでの立ち位置も変わっていきますよね。 和田 10000mのタイムでも割とチーム内で上位でした。ただ、1学年下に清水兄弟(将也、智也)、2学年下に藤井周一と、高校から全国区で活躍する後輩がいて、すごく刺激になりました。藤井は部屋子(同部屋の後輩)だったんです。ライバルであり、仲が良かった。彼らが僕を引き上げてくれました。10000mでも28分台をマークできました。 出雲、全日本と出場できて、箱根で頑張るぞっていう時に…。少しケガをして本調子じゃなかったところで、気持ちがぶっ壊れてしまったんです。 ――3年目が出場できなかった理由ですね。 和田 直前の練習でも息苦しくなって全然走れなかったんです。でも、中心選手として頑張らないといけないっていうプレッシャーがかかった。設定タイムでは走れてもめっちゃ苦しい。ブレーキしたらどうしよう、シード落ちしたら迷惑をかけちゃう。そういったことばかり考えました。走れないわけじゃないけど、ベストではないっていうのはわかるんです。 スタッフ陣に託そうと思って、西さんに状態を伝えに行きました。不安もありつつ、心のどこかで「走ってくれ」と言われるんだろうなって期待していた自分もいたんです。そうしたら、「よし、替わろう」って即答されたんです。その瞬間、膝から崩れ落ちて大号泣したんです。 その頃になると、箱根駅伝が大きな目標でした。家族も応援してくれていて、前日から高知を出発して現地に向かってくれているんですよ。来ている道中に「ごめん、明日出られなくなった」って伝えましたね。すごく申し訳なかった。 ――そうした挫折の経験から学んだことは? 和田 まず、ケガをした後にしっかり休まないといけなかった。結局、動悸がしていたのは検査をしても異常なしで、心因性だったんです。プレッシャーですよね。そこで初めて、メンタルの大切さを感じました。メンタルを整えれば身体はうごくし、一定のラインを越えると身体に不調が出る。春先にはそのコントロールがうまくなりました。 何より、1年目と同じで、出られなかったことで4年目の箱根に懸ける思いはすごく強くなりました。