俳優・和田正人さんが語る箱根駅伝 日大時代に2度9区を疾走「月並みだけど青春でした」汗をかき、涙を流した日々
3年目の挫折から最後の箱根路へ
――4年時はトラックでも活躍されます。 和田 ランナー・和田正人が完成に向かっていきました。インカレでも入賞しましたし、満足のいくシーズンを過ごせました。でも、今度は夏合宿前にシンスプリント発症と疲労骨折で3ヵ月走れなかったんです…。 この頃は腐っていましたね。全日本には出られない。そうなると、箱根駅伝1本しかない。3ヵ月休んで、10月頃から練習を再開しました。11月にチーム練習に合流。ただ、走り込みができていなかったので、そこは不安もありました。 ――最後の箱根駅伝も9区でした。 和田 調子は上がっていたのですがケガ明けで少し不安もあったので、1区を走りたいですって言いました。単独走よりヨーイドンからついて行ければ、区間3位くらいでいけるという自信があったんです。9区になって、あの苦い記憶が蘇りましたが、今なら大丈夫、と気合が入りました。 4年目はめちゃくちゃ楽しかったです。1年前の経験からメンタルをコントロールする術が身について、良い状態を作るためには「最後は楽しもう」という気持ちが大事なんだって。これは今も、大きな仕事でプレッシャーがある時にも生かされています。 シード権争いくらいで来たのですが、前後にいる大学には負けへんぞって。走り出したら相手はまったく意識せず、自分の走りに集中できましたね。 ――1時間10分52秒の区間5位と力走ですね。 和田 中盤を越えたところでは区間3位くらいの通過だったんです。そこまではイメージ通り走れていて、1時間9分台で行けるだろうなって。そうしたらラスト5kmで…。両手がしびれてきて、急に身体が動かなくなったんです。 完全にエネルギー不足ですよね。やっぱり練習量が最後のところで足りなかった。どれだけ動かそうと思っても、脚がゆっくりしか動かない。ラスト5kmは15分20秒くらいでいければ目標タイムくらいに届くところを、16分40秒かかりました。なんとか1km3分05秒くらいでキープして。 最後の橋の手前で、あまりにも身体が動かなくて「あー!!!」って叫びました。観客の人も驚いていたと思います(笑)。あれだけが悔やまれます。 ――当時も沿道はすごい人だったと思います。 和田 横浜駅前はすごかったですよ。何層にも連なっていました。2年の時は余裕がなくて周囲が見えていなかったですし、4年の時は集中していて。それでも、沿道のすごさは覚えています。ただ、友達が見に来てくれて、大きい声で応援してくれたらしいのですが、まったく気づかなかったですね。 ただ、不思議なもので家族の声だけはわかるんです。これは選手の家族“あるある”だと思うのですが、ちゃんと声が届くように、すこし人混みから外れたところを探して応援するんですよ(笑)。 ――卒業後も競技を続けるのは決まっていたんですよね。 和田 そうですね。2月くらいから実業団の合宿に参加していました。その後、学生最後として出場したハーフマラソンでは1時間2分で走れたんです。もう爆走ですよ。区間賞を取っている選手たちがいたのですが、軒並み先着しました。 ――少し話は変わりますが、NECが廃部になった後に俳優になられます。その経緯をうかがえますか。 和田 実業団ではずっとケガばかりで、なかなか試合に出られませんでした。そうした時期にいろいろ人生について考えるようになりました。スポーツはうまくいっても30歳少しで引退。先が長い人生で、プレイヤーとしてずっと輝かせる仕事はないかなって。やればやるほど、積み重なって、広がっていく。そこで俳優さんって良い仕事だなって思ったんです。 そうしたところで廃部が決まって、「これはチャンスだな」って背中を押された気がしたんです。翌日の面談でチームメイトが次の所属について相談するなか、「俳優になります!」って言いました。 明確な目標が見つかったら、僕の中ではそこに向かって努力していく。そうしたら実現するという成功体験を、陸上を通して経験しているんです。だから、「俳優になれる」と信じ切っていました。その後は年齢をごまかして事務所に…。そのへんの流れは、インターネットでいろいろ調べると出てくると思います(笑)。